岸圭介『学力は「ごめんなさい」にあらわれる』
今月はYujin氏選書である表題の本を読んだ。話題も身近なもので、これまで自分が親や学校から施されてきた教育を振り返ったり、これからの自分の勉強に向き合う姿勢を正す良い機会になったと思う。
Yujin氏の記事は以下。飛ぶと書評のページのリンクも貼ってあるので、内容が知りたい方はそちらも合わせて読んでいただきたい。
聞く&話すということ
人の話を聞く理由を子供たちに聞いてみたというくだりがあった。叱られるのが嫌とか、聞き逃したら損をしてしまう情報が紛れているかもしれないとか自分本位の理由である意見と対比して、聞いてあげなかったら可哀想という相手の存在そのものが聞く理由である意見が挙げられていた。長年教育現場にいる筆者からすると、後者の方が成長の伸びがみられるらしい。
僕の場合はどうか考えてみる。人の話を聞く理由としては、例えば何かしらの指示を受ける際の話ならば、叱られるのが嫌とかそういう理由を含んでいることもあるし、大学の講義では講師の言っていることを一言一句漏らさずメモを取ったりとかしてしまうのだが、そこには聞き逃したら損をしてしまう情報が紛れているかもしれないという理由が含まれている。基本的に一対一で人の話を聞く場合は、後者の理由によって強く動機づけられているのだと思う。話すのは得意な方ではなかったが、昔から目上とか同級生とか関係なく人の話を聞くのは好きだった。聞き上手(若君?)と他人に言われることもあったと思う。今も人の話を聞くために大学に行っていると言っても過言ではない。
テキスト以上の情報(そもそもテキストにならないような個人的過ぎる話、またそれを語る本人の表情、語られ方全般)があるというのが、僕の思う人の話を聞くということの面白ポイントかもしれない。
話すことについて、挨拶の話題が出ていたのでそれにも触れてみる。僕もあいさつは親によくしつけられた記憶がある。3歳から5歳ぐらいの頃は恥ずかしがって親の後ろに隠れるとか、発話はせずに指で何歳かを相手に伝えるとかそういうレベルのコミュケーションしか取れていなかったと思うが、それでもしっかり挨拶するように親にうるさく言われていた覚えがある。家柄上(?)正月なんかの時期には「挨拶回り」なるものがあったり、接客の際に跡取り息子として挨拶をやらされたことがめちゃくちゃある。僕にとって挨拶は、人との関係を作る・保つための基本動作そのものである。挨拶に続けて話すというのが自然にでき、そこから仲良くなれることがあるからである。話に繋がらなくても、少なくともお互いを認知することができる(相手意識が生まれる)という点で大きい。
さっきの聞く理由の話にも言えることだが、「必要な情報」「必要な繋がり」という際の必要性というのは、必ずしも自分自身で判断できるものではないという認識をしておくことが大事だと思う。さらっと聞き逃した情報でも、思いがけないところで重要になってきたりするし、どうでもええやろwと思って蔑ろにした関係が後に効いてくるなんていうのはざらにある。こんなの、言うまでもないかもしれないが、僕が大事にしている指針の一つである。
相手のことを意識するというのは、大学にいて学問をやっている身としては常々大事なことだと思う。というかもっと広く生きていく上で大事なことである。大学にいて何かしらの営みに参加するというだけで、もう相手のことを考えないといけない。例えばセミナーをするなら、発表している内容がちゃんと相手に伝わるように準備をしなければならない(自戒)。相手相手と他人本位の生き方的行為が、結局は自分の視野や可能性を広げることに繋がるので、学力的なこと以前に相手のことを意識するというのを大事にする人が増えればもっといい学問環境、ひいては世の中になるのではなかろうか。
本の最後の方に少しだけ算数教育の話があったので思い出したことを書いておくが、僕は中高一貫校でかなり大学受験を意識した教育を受けるという環境にあった。高校に上がってからは、学校と塾漬けの毎日で常に大学入試を意識させられていたため、問題は解ければいいものだという風に思っていた節がある。別解を考えたり問題にじっくり向き合うということをまるでやらなかったのだが、そこが数学を勉強する醍醐味であり成長する機会だったのだと大学受験が終わってから気づいた。どうせ(解法なんて)思いつかないし、とか言わず、もっとやってみるべきだったと反省しているので、これからも勉強していく数学や物理においてそういうことを意識してやりたいと思った。自分の子供にはあまり受験を意識した教育は受けさせたくないとも思った。
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