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自分が苦しむ映画を再生するのはやめようぜ──『青空としてのわたし』書評

最近読んでよかった本を紹介したい。それは、山下良道さんというお坊さんが書いた『青空としてのわたし』という本だ。

この本に出てくる、「考えごとをしているということは、頭のなかでいろいろな『映画』が展開しているようなもの」という考え方のフレームが、私にはとても救いになったのだ。

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私には先日、イライラざわざわしてしまう出来事があった。その出来事が起きてしばらくしてからも、何度もその出来事を思い出しては、イライラむしゃくしゃしていた。
 
でもそうしてイライラしているとき、「あっ、今自分は、頭のなかで映画を再生しているぞ」と気がつくことによって、その出来事について考えるのをやめ、平穏な気持ちを取り戻すことができるようになったのである。

明日のことを考えているとき、明日に関する「映画」が心のなかで展開している。あるいは昨日の嫌なことを思い出しているとき、昨日の嫌なあの出来事の「映画」が頭のなかで上映されている。(中略)
たとえば誰かのことを恨んでいるとすると、当然、恨んでいる相手が苦しみの原因だと思うでしょう。しかし、どういうふうにその人を恨んでいるかをよく観察してみると、何回もその恨んでいる人を思い出しているはずです。その人から言われたあの嫌な出来事を何回も何回も思い出している。

出典:青空としてのわたし

そう、私は嫌な出来事に、自らすすんで囚われにいっていたのだ。

でも一度「考えごとは映画」だというフレームが頭に組み込まれると、自分が考えごとをしているときに「これは映画だ!」と、そのことに気づくことができる。気づくことさえできれば、その映画を止めることができるようになる。なぜなら、その映画を上映しているのは他でもない自分自身だからだ。

映画は、没入するとすべてがリアルに見えて、それが映画だということを忘れます。(中略)でも、没入から覚めたら、ああこれは映画だったとわかります。我々は、その映画を止めること、映写機のスイッチを切ってスクリーンを元の真っ白な状態に戻すことができるのです。

出典:青空としてのわたし

さらに良道さんは、映画を止めるコツを「身体の感覚を感じること」だと語る。

映画にズブズブに入り込んでいる人は、すっかり何かを忘れています。それは、自分の身体です。昨日のあの嫌な出来事を思い出しているとき、心は完全に昨日のあの嫌な場面に行ってしまって、身体をすっかり忘れている。頭のなかだけで生きているということです。これがふだん、我々が生きている世界です。頭のなかの映画のなかだけで生きている。
(中略)
ヨーガなどで身体の感覚を感じると不思議と安らぐのは、脳味噌のなかの映画から解放されて、今のこの自分の身体に戻ったからです。悩み苦しみは映画にすぎないから、映画から解放されるとともに、悩み苦しみから解放される。だから身体の感覚を感じたときに、安らぎを感じるのです。

出典:青空としてのわたし

これは映画だと気づいてもなお、どうしても映画の再生が止まらない──私にもそんなときがあった。そんなときは、自分の呼吸に集中してみる。今、息を吸っているな…肺が膨らんでいるな…そして吐く…肺がしぼんでいく……。そうやって呼吸を観察していると、自然と映画の再生が止まる。まあこれが、いわゆる瞑想というやつなのだけど。

「考えごとは、映画である」。良いことでも悪いことでも、過去の思い出や記憶に浸りがちな私にとっては、このフレームワークを手に入れることができたのは、本当に大きなことだった。過去を生きて一喜一憂するのではなく、現在に生きて平穏をかんじる。そんな在り方を、体現しやすくなったからだ。

皆さんもぜひ、「考えごとは、映画である」というフレームを頭に入れてみてください。自分が一日のうちに、どれだけ多くの映画を再生しているか。意識してみると、アッとおどろくと思いますよ。

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