ある和尚と弟子が道を歩いていると、壁に絵が描かれていた。 見ると、釣鐘と提灯が天秤にかけられており、釣鐘が左上、提灯が右下に描かれていた。 これを見た弟子は、得意げに「何で釣鐘が軽いんですか。この絵を描いた人は気違いですね。」と話した。 すると、和尚は「これは、世間の考えを表した絵だよ。釣鐘は、人生の目的で、提灯は仕事を表している。世間では、仕事ばかりを重視して、肝心な人生の目的を疎かにしている。それを、そなたに分かってもらうために、私が描
仏教の目的は、死んだ後、自分がどこに行くのか?死後の解決を教えられています。 我々は、死を嫌いつつ 死を急いでいる。 ああ、これほどの 人生の矛盾があろうか。 100%確実な未来なのに、皆、死の話を避けます。それは、心が暗くなるからです。 ポジティブに生きよう! と、言う人がいます。 例えば、自分に癌が見つかったとき、医者に「あっ、ガンが見つかったけど、気持ちが暗くなるから、この話は無しにしましょう」なんて言われたらどうでしょうか? 死
こんにちは ゆつきです。 相手の期待に応えようとすると、疲れてしまいます。反対に、自分が相手に期待してしまう時もあります。 また、人に言われてやるのも苦ですよね。 自分の外にあるものは、全部変化するものであり、裏切るものです。 他人に自分の人生を委ねるな、とはよく言われます。 では、何を頼りにすればいいのか、といったら、自分が今までしてきた行いに尽きます。 今まで心で何を思ったか、口で何を言ったか、体で何をしたか。 そういった行いが、さまざまな縁と合わさっ
おはようございます。 ゆつきです。 人を注意する時って、勇気がいります。 特に、自分より目上の方に注意するときです。私も以前、そんな機会がありました。 ですが、逆の立場だったらどうでしょう? 私も歳の差に関わらず、注意されると、イラッときてしまいます。 相手のアドバイスをしっかり受け止め、反省し、実行するのはなかなか容易でないと痛感しました。 ですが、注意してくれる人は、自分を成長させてくれる大切な人です。 その人のアドバイスが、間違っていたとしても、自分
こんばんは ゆつきです。 「継続は力なり」と言われますが、言う程簡単ではありません。 勉強したり、働いたり、家事をしたり、毎日大変です。 そんな中、ふと思ったのですが、「呼吸」ってすごいな、という事です。 お腹が空けば、ご飯を食べます。 眠くなれば、布団に入ります。 お金が欲しければ、働きます。 みんなに見て欲しいから、作品描きます。 ですが、呼吸はどうでしょうか? 生きるために、今から酸素吸います。 次、二酸化炭素出します。 生きるためにしたいという気持ちも
おはようございます。 ゆつきです。 タイトルの結論から言いますと、「自分が不幸になるだけだから」です。 私は子供の頃、兄とよくゲームをしていました。 母にはゲームばかりするなと、家の何処かにゲーム機を隠されるのですが、兄はだいたい見つけ出します。 母が車で買い物に出かけると、ゲーム機を引っ張り出し、窓から母が帰ってきていないか確認しながら、リビングで一緒にゲームをしていました。 ある日、玄関の鍵を回す音が聞こえました。 母が帰ってきたのです。 その時は、窓から
おはようございます。 ゆつきです。 犬は、人に叩かれれば、キャンと鳴いて逃げます。 でも、人間はそうではありません。 「なぜ叩かれたのか?どうすれば叩かれなくなるのか?」と考える事ができます。 嫌な上司がいても、会社に勤め続けるのは、自分の生活を維持するためです。 では、なぜ多くの会社の中で、私はこの上司と一緒に働いているのか? それは、あなたが今までまいてきた種まき(行動)によって、その相手を引き寄せたからです。 あなたの行い(因)が、嫌いな上司(縁
こんにちは。 ゆつきです。 タイトルにもありますように、「ありがとう」は、もともと「有り難し」が語源になっています。 この「有り難し」は、仏教に由来する言葉です。 お経の中には、 「人の生を受くるは難く、いま生命あるは有り難し」 私達が人間に生まれるということは、大変難しいことだ。そして、今生きているということは、大変有り難いことだ。 なぜ人間に生まれることが難しいのか。 それについてお釈迦様は、阿難というお弟子に、以下の「盲亀浮木のたとえ」を説かれました。
こんにちは。ゆつきです。 皆さんは、こんなことを考えたことは、ありますか? なぜ自分が、十三億人の中国ではなく、一億ニ千万人の日本に生まれたのか。 江戸時代に生まれた人、明治に生まれた人、平成に生まれる人もいます。 大正、昭和に生まれて無理やり戦争にかり出され、殺された若者もたくさんあります。平和な世に生を受けていたら、そんな人達の人生は、大きく変わっていたでしょう。 地球上に、同じ人間はいません。ですが、自分の生涯を左右することが一体何によって決まるのか。 これ
こんにちは。ゆつきです。 仏教で、幸福とは、二種類あることをご存知でしょうか? 一つは、「相対の幸福」。 もう一つは、「絶対の幸福」です。 相対の幸福とは、何かと比べなければ、自分が幸せかどうか分からない、という幸福です。 例えば、 テストで80点取ったとします。 ですが、クラスの平均点が90点だったら、ちょっとガッカリします。 反対に、クラスの平均点が70点だった場合は、嬉しくなります。 このように、自分の点数だけを見て、その点数がいい点数なのか、悪い点数なのかは
「本当の私」とは何か。 自分のことは自分が一番知っている、と思いがちですが、最も大事で最もわからないのが自分自身ではないでしょうか。 はるか宇宙の様子が分かっても、素粒子の世界が解明されても、三十億の遺伝子が解読されても、依然としてわからないのが私自身です。 いくつか例を上げてみます。 心なき者のしわざか、背中に矢が刺さった痛々しいカモの映像が、視聴者の哀れを誘ったことがある。料理店でその矢ガモのテレビを見ながら、「なんと酷い事を…」と顔をしかめて、カモ鍋を食べている
こんにちは、ゆつきです。 哲学では、人生の目的は「幸福になること」だと結論が出ているそうです。 ですが、幸福とは何でしょうか? 私は、大学時代に自分にとっての幸福とは何かを考えていました。 友人と遊んでいても、好きな絵を描いていても、なぜか時間を無駄にしているような感覚がありました。 また、テレビのニュースを見て、自分よりも若い人が亡くなったと聞くと、「自分も、いつ死ぬか分からないのに、生きている意味ってあるんだろうか」と思っていました。 そもそも、家族や友人も最