ヴェニスに死すを見て読んで
私はこの頃、陳腐な作品というものに見飽きてしまったので、何か高尚な作品を見ようと期待を抱いて、映画鑑賞に臨む。そして何よりも心残りなのは、ヴェニスに死すという作品だ。あらすじを述べよう。
主人公は、中年の作家で、休暇中に、ヴェニスのリゾート地の砂浜でぼんやりと水平線を眺めていた際に、砂遊びをしている中性的な好青年が視野に入り、その美しさに心酔してしまう。日々、盗み見する様に、様々な好青年の姿を耽溺しながら休みを楽しむのだが、休暇が残り少なくなると共に、心残りになり、焦れながらも、ヴェニスを後にした。所々の場面で、ペストという感染症が世間で流行っていることを目にする。その焦燥感と恋心を胸に仕舞い込み、一抹の不安を抱きながらヴェニスを後にする。
しかし乗り継ぎの港で、トラブルが発生し、ヴェニスに戻らざる得なくなってしまい、ヴェニスに着くやいなや、主人公はペストに殺されてしまい、その哀れな姿を好青年に流し目で見られる。
という概観である。
このペストと恋心という関連性をよく調べる。よくわからなかったので、トーマスマンの原作を読んだが、さらにわからなくなってしまった。この作品が執筆された経緯がわかった。それは、ただの文学ではなく、省察であるということだ。
私はその関連性というものを私もよく考察してみようとした。
理解を苦しめるのは、好青年を思っていた眼差しは、恋なのであろうか?という疑問である。恋と共に憧憬という感情が抱かれるのではないか?文学少年が、三島由紀夫の真似をするように、恋ともに憧れという感情が抱かれている。自らが為し得なかった諸行為を投影しているのでは、という疑問が抱かれる。主人公は内向的で、恋焦がれるしか無しえなかったのに対し、好青年は朗らかで友人や家族との会話や遊戯を心の底から楽しんでいた。このあまりにも対照的な二つの存在が、恋というよりも、憧憬という想いを抱かせた。
そして、感染症と恋または憧憬の関連性についてだが、これは、それぞれに美があるという点において共通している。
感染症は禍いの元だと言われがちだが、とても恋や憧れと似ている。
我々は、それらの美を垣間見るのだ。美という観念は、とてもではないが常日頃からあるももではない。美しいものは滅多にないし、隙間や行間に潜んでいるのである。考察すればするほど、美というものがなんなのかを我々は知る。特にパイドンで言われるところの目に見えるもの(肉体)と見えないもの(魂)。すなわち、魂というのは、同一性において無いもの=存在本来なもの(ウゥシアー)である。そして、美というのは、感覚で捉えられるものではないことを知る。ではなにか?純粋な魂が、それ自体として永劫的不変なものへと導かれて触れることをパイドンでは展開される。
人は動物や事物などの等しいものとしてはそこにあるが、等さはそこには無いことが言える。そして、これらのものはあるということを認める場合、魂もそのに存在しているということを論証しているのではないか。また、感染症は諸症状が、一定多数の人たちに感染ることによって、感染症というものが認められるのである。
それでは、恋の場合はどうであろうか?
恋というのは感染症に類似している。目には見えず、大多数の人たちが、恋焦がれて、健全な心が純真な恋世界へと導かれる。
また、終焉すなわち死はどうであろうか?
むろん感染症に殺される人々も居る。灯台下暗しでもあり、その死が近づいてくることを無意識のうちに死んで行く。また、恋も終焉がある。会者定離という言葉があるように、恋心に殺される人の話は、置いておこう。
また、新たな気持ちを持って、映画鑑賞に臨む次第である。