自分に甘すぎるぐらいがちょうどいい
「自分に厳しく」という言葉を、今までの人生の中で何度聞いてきたことだろう。
学生時代に学校の先生に散々聞かされたこの言葉が、社会人になった今、生活の中で少しでも弱い自分が出てくるようなときに何度も繰り返し頭の中に鳴り響く。まるで、彼らが自分の中に住み着いてでもいるみたいに。
私が「自分に厳しく」と言われて自分に厳しくできる人間だったら良かったのだけど、残念ながら私は自分が熱中できること以外の場面で自分を追い込むことが壊滅的にできない人間で、そのうえ人に言われたことを必要以上に気にしてしまうたちなので、「自分に厳しくしないといけないのに、ぜんぜん厳しくできない」という、自分の中で無駄に助長されたコンプレックスによって苦しめられ続けてきた。
でも最近は、こう思うようにしている。
そもそも、どうして自分に厳しくする必要があるのか?
自分に厳しくなるのは、自分が成長したいと思ったときに、自然と自ずからなるものなんじゃないのか?
そもそも自分が好きな何かに熱中しているときは「自分に厳しくならないと!」なんて思わないんじゃないのか。(スポーツ選手とか、勝ちたいけど勝つには自分の本能を統制してでも死ぬほど頑張らないといけないようなことをやってる人たちは別だと思うけど)
学生時代に言われ続けていたそれは、きっと彼らの「都合」から生まれていた言葉だったんだろうなと今になっては思う。「自分に厳しく」をしつけることで、自分たちにとって管理しやすい、都合のいい生徒に作り上げようとしていたんだろう。(そうじゃない先生もいたのかもしれないけど)
先生は先生でも労働者なんだから、楽してお金をもらいたいって思ってしまうのはしょうがない。
でも、私自身は別に彼らの都合に合わせて生きる必要はなかったわけで、「良い子」になるために「自分に厳しく」する必要なんて微塵もなかったわけだ。
ということに気づいたはいいものの、長年の呪縛をすぐに克服できるわけではなく、私はまだまだ、本来なら存在しないはずの「〜ねばならない」に縛られて生きている。これは植え付けられた幻想なんだと何度自分に言い聞かせたとしても、ふとしたときに奴らが出てきて心をかき乱す。
だから私は、そんなときにこそ、自分自身に言い聞かせる。
「自分に甘すぎるぐらいがちょうどいい」と。
自分のことを、お世辞でもなんでもなく心の底から褒められるのは、自分しかいないんだから。どんなに大きな賞をとっても、どんなにお金を稼いでも、自分がやったことの本当の「凄さ」は、他人には決してわからない。
例えば学校で勉強についていけない子がいたとして、実はその子は壮絶な家庭環境の中にいて、精神的にボロボロの状態で、それでもせめて学校には行こうと思って毎日頑張って学校に通ってきているのかもしれない。
そんな子と、親にもお金にも恵まれた環境で育って、テストで学年1位を取る子と、どっちが頑張っている、どっちが努力している、と他人が外からジャッジすることはできるのか?当たり前だけど、できない。
それなのに、何も知らない大人たちは「あの子は努力が足りない」「あの子は頑張り屋さん」とその子の努力の量を表面的な情報だけで決めつける。学校だけじゃなく、社会の中では残念ながらそれが現実。(中には表面だけじゃなくてその人の背景を一生懸命に見ようとする人や、そんな人たちが集まった集団もあると思うけど)
だから、人に自分を評価させてはいけない。評価をもらうとしても、それによって一喜一憂するのは一刻も早く辞めた方がいい。
自分を褒めたり叱ったりできるのは、四六時中自分と一緒にいる自分だけなんだから。
ただでさえ生きにくい世界で、自分のケツを叩いて毎日仕事に行ってご飯を食べて生きているっていうだけで、本当にすごいと思う。
社会的意義とか、社会貢献度とか、そんなことを考えるのは二の次でいい。
報酬に見合わない我慢はさっさとやめて、報酬に見合うこと、楽なこと、やっていて楽しいことをやる。
そして余力があるときに、自分ができる範囲で、人のためになることをする。
みんながそうして今の社会が回っていくかどうかは別として(そもそもそれで回らなくなる社会は根本的なあり方を見直す必要があるから、自分が責任を感じる必要はない)私は私のために生きることを諦めたくないし、そのための努力は惜しみたくないなと思う。
自分に厳しくするどころか、自分に甘すぎるぐらいがちょうどいいんだ、きっと。
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