世界は一冊の美しき書物に終る
昨年後半のある日。よく宝石やジュエリーについてのやりとりをしている友人から、ある古本に書かれていたという「印度産のサファイヤ」についての質問を受けた。
それなりの品質のサファイアだとすると、有名な産地ではカシミールかミャンマーあたりだろうか。どちらもかつては英領インド帝国の一部だったことがあるし。インドに近いスリランカも有名なサファイアの産地だけど、こちらはセイロン島として古くから知られていて、わざわざインド産と書くとは考えにくい。
そんなやりとりをした後、その本がどんな古本なのか気になって尋ねたら、それはそれは興味深い趣味本について知ることになった。そしてもちろん、わたしもその書籍を入手した。
今回のnoteはその個性的な趣味本について。
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著者は佐々木桔梗。1959年1月、プレス・ビブリオマーヌ刊。タイトルは『寶石本の話』。寶石(宝石)についての話ではなく、装丁に宝石をあしらった本について書かれた内容だ。内表紙には副題として「文藝書 趣味書 寶石篏入本解説」と書かれている。
限定版として149部が作られ、うち18部は著者の私家版でのこりの131部が頒布されたとのこと。わたしが買ったものには
とある。C版というのは表紙にエメラルドが嵌め込まれたバージョン。なおA版は紫水晶(アメシスト)、B版はサファイアが嵌め込まれているとのことで、私家版には象牙を用いた試作品と宝石なし版もあるという。
宝石の嵌め込まれた表紙は「背・コーネル北米産犢革及び平高級布地ブロケード仕立」の巻見返しで、一部に純金箔が使われている。そして用紙はウォーターマーク(透かし)入りの「越前産特漉厚手局紙」で、天金が施されている。凝りに凝った製本だ。
百聞は一見に如かず。わたしがブログ「一日一画」用にオイルパステルで描いたときの写真と表紙のクローズアップを載せておく。
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この本の表紙に嵌め込まれているのはエメラルド。別紙の刊行後記には次のようにある。
1959年の発行なので20年以上前となると戦前からということになる。よく戦火を逃れて無傷で保管されていたものだ。
この本に使われているエメラルドについての詳細は書かれていないのだけど、著者の佐々木氏が前年に手がけた『異端の花』(小村定吉著、プレス・ビブリオマーヌ刊)ではロシアのウラル産エメラルドを使ったとある。
この本の表紙に嵌め込まれたエメラルドもおそらくウラル産だろう。
拡大してみると、中央に雲母のインクルージョンが見えた。虹色に反射する液膜もあるようだ。これらの特徴は現在のロシア産エメラルドに共通している。同様のインクルージョンはザンビア産やエチオピア産にも見られるけれども、本の出版年を考えればこれらの産地はあり得ない。
ウラル山脈にあるマリインスキー・マリシェワ鉱山は帝政ロシア時代に開発されたエメラルド鉱山。20世紀初めのロシアはコロンビアを凌ぐ世界一のエメラルド産出量をほこっていたことがある。
わたしはコロナ前にこの鉱山を訪れた。そのときの話では、当初は露天採掘だったものの現在はトンネル採掘されていて、地下に膨大な埋蔵量が見こまれているという。ソ連時代には軍事用にエメラルドを粉砕してベリリウムを精錬していたが、最近になってようやくエメラルド鉱山として再稼働しはじめたところだった。
本に嵌め込まれているエメラルドが戦前にウラル産として仕入れられたものだとすれば、おそらくは帝政ロシア時代のマリシェワで露天採掘されていたころのもの。いまやファベルジェのアンティークぐらいでしかお目にかかれない。
そんなエメラルドが日本の古書に嵌め込まれた形でわたしの手元にやってきた。なんという縁だろう。
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著者の佐々木桔梗氏がどのような人物なのか、わたしは知らない。ネット検索をしてもヒットするのはほとんどが中古本の販売サイトだ。ひとつ、佐々木氏の甥にあたるかたが書いたと思われるページにあたった。
そこの情報によれば『寶石本の話』を出版したプレス・ビブリオマーヌの主宰で、2007年に他界されているようだ。「僧籍を持ちつつの活動」ともあり、僧侶でもあったらしい。
ほかに『總革本の話』という趣味本についての書籍も出しているから、特装本についてはかなり力を入れていたことがうかがえる。『寶石本の話』のなかでも、小村定吉の『續美学奥義』『異端の花』も手がけたことが書かれていて、さらに海外の書籍を特装本に改装したりもしていたようだ。
そんな特装本化した海外の書籍として、これまたエメラルドを嵌め込んだ『KARLSBAD』が写真付きで掲載されている。まったく偶然なのだけど、このスロバキアの温泉地Karlsbadにちなんで命名されたのが米国カリフォルニア州Carlsbad。わたしの勤務先の本部がある町だ。なんとも不思議な縁を感じる。
佐々木桔梗氏は宝石の専門家ではなく、一般的な趣味人だったようだ。冒頭には次のように書かれている。
しかし随所に見られる宝石についての記述を読むと、一朝一夕の付け焼き刃では身につかない知識の裏付けがありそうに思える。知識だけでなく並々ならぬ愛情も伝わってくる。少々長いけれどわかりやすい部分を引用しておく。
ここに羅列された宝石名を見ても、そうとう造詣が深そうだ。養殖真珠の評価についても客観的な視点で理解されている。時代を感じさせる宝石名の漢字表記は現代の感覚ではかえって新鮮。19世紀半ばにロシアで見つかったデマントイドを「翠柘榴石」と書いているところなど、なかなかに感心させられる。
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素人かつ貧乏書生だと謙遜しながらも随所に宝石についての造詣と愛情の深さをうかがわせる佐々木桔梗氏だけど、間違いがないというわけではない。
専門家の端くれとして気づいたところを指摘しておきたい。以下の引用は、堀口大学の著作を改装した際の説明に続いてご本人の希望を述べた箇所。
かつてビックスバイト(bixbite)と呼ばれた石はレッドベリル。たしかに緑柱石(ベリル)ではあるのだけど、色はその名のとおり赤色だ。
佐々木氏は「昼間金色に輝き夜青緑色」と書いているのでアレキサンドライトのような変色効果のものを指している。キャッツアイ・クリソベリルに続けてあげられていることからも、おなじクリソベリルのアレキサンドライトを意図したというのはあり得そうだ。しかし表記されている色はアレキサンドライトの色とは異なる。ベリルにはカラーチェンジをする変種はない。わざわざ緑柱石と書いてビックスバイトとルビを振っているところを見ると、なにか誤解が生じているものと考えた方が妥当だろう。
ちなみにレッドベリルが発見されたのは米国ユタ州。20世紀初頭のことだ。発見者の鉱物学者ビクスビー(Bixby)氏にちなんでビックスバイト(bixbite)と命名されたものの、別の鉱物ビクスビーアイト(bixbyite)との混同を避けて1912年に撤回された。鉱物としてはベリルなのでレッドベリルと呼ばれるようになったけれど、宝石業界ではいまだにビックスバイトと呼ぶ人もいる。
このように、この「ビックスバイト」については現代知識では誤情報だ。けれどもレッドベリルの発見と命名の混乱が日本の明治・大正期であることと、当時の情報インフラを鑑みると、佐々木桔梗氏が最新情報の入手に熱心だったことはじゅうぶんにうかがえる。
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この『寶石本の話』は化粧箱入りで、書籍とは別に蔵書票がついている。その蔵書票には東郷青児によるイラストがあり、これは佐々木氏が入手した東郷作品を編集して製版したとのこと。東郷氏より直接使用許可を得たとの話が刊行後記に書かれている。
いまや蔵書票や蔵書印はたまに古書で見かけることがあるぐらいで、現在もこれらを使用している愛書家はどれぐらいいるのだろう。大衆化・消耗品化した現代の書籍には不向きなのは確かだ。とくに電子書籍となれば存在しようのない概念なので、もはや絶滅しつつある文化なのかもしれない。
・・・じつはわたしはそんな蔵書票ユーザーのひとりだったりする。
半分お遊びの消しゴムはんこなのだけど、オリジナルの蔵書票をつくっている。自分で彫ってスタンプし、通し番号をつけてデータベースのソフトで管理。お遊び気分ゆえ、膨大な蔵書を全然カバーしきれず蔵書管理は中途半端なままなのだけど。
この『寶石本の話』を教えてくれた友人にオリジナル蔵書票のことを話したら、たいそう驚かれた。きっと蔵書票なんて古めかしいものをつくる趣味人に会うことはないのだろう。わたしだってほかにそんな知人はいない。
ちなみにその友人はエメラルド入り以外にアメシスト入りとサファイア入りもあわせて『寶石本の話』を5冊も手に入れたらしい。素晴らしい宝石愛と書物愛だ。それを聞いてこんどはわたしがたいそう驚いたのは言うまでもない。
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『寶石本の話』の最後は、マラルメの言葉の引用で締めくられている。
やはり佐々木桔梗氏の本懐は愛書家なのだろう。ここまで宝石愛を披露しておいて宝石を散りばめなくても良いと言っている。しかしこれもまた逆説的で、そのためにこうして宝石で飾っているのだとも解釈できる。
マラルメは言葉を操る詩人だから言葉を綴った書物に世界を帰結させた。だけど宝石はその世界の一部だ。この世にある美しいもののひとつだ。どれだけ言葉を尽くしても宝石そのものが表現できなければ、ビジュアルで飾れば良い。
絵を描く宝石学者としては、そんなふうに考えたくなってしまう。美しいものとそこへの趣味人のこだわりも美しい、とても楽しい書物に出会えた。