第4章 武家社会の成立❷
2.執権政治
北条氏の台頭
すぐれた指導者である頼朝のもとでは、将軍独裁の体制で政治は運営されていたが、頼朝の死後、あいついで将軍となった若い頼家と実朝の時代になると、御家人中心の政治を求める動きが強まった。それとともに有力な御家人の間で幕府の主導権を巡る激しい争いが続き、多くの御家人が滅んでいった❶。
その中で勢力 を伸ばしてきたのが、伊豆の在庁官人出身の北条氏である。1203(建仁3)年、頼朝の妻政子の父である北条時政は、将軍頼家を廃して❷、弟の実朝をたて、幕府の実権をにぎった。
この時政の地位は執権と呼ばれて子の義時に継承されたが、更に義時は侍所の長官であった和田義盛を滅ぼし(和田合戦)、政所と侍所の長官を兼ねてその地位を固めた。これ以後、執権は北条氏一族のあいだで世襲されるようになった。 京都の朝廷では、幕府の成立と勢力の拡大に直面して、これまでの朝廷の政治の立直しが行われた。その中心にあったのが後鳥羽上皇である。上皇は、分散していた広大な天皇家領の荘園を上皇の手中に治めるとともに、新たに西面の武士をおいて軍事力の増強を図るなど院政を強化し、幕府と 対決して朝廷の勢力を挽回しようとする動きを強めた。そのなかで1219 (承久元)年、将軍実朝が頼家の遺児公暁に暗殺された事件をきっかけに、朝幕関係は不安定となった❸。
1221(承久3)年、後鳥羽上皇は、畿内・西国の武士や大寺院の僧兵、更に北条氏の勢力の強化に反発する東国武士の一部をも味方に引き入れて、ついに義時追討の兵をあげた。しかし、上皇側の期待に反して、東国の武士の大多数は北条氏のもとに結集して戦いにのぞんだ。幕府は、義時の子泰時、弟の時房らの率いる軍を送り京都を攻めた。1カ月ののち、戦いは幕府の圧倒的な勝利に終わり、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇の配流と仲恭天皇の廃位が行われた。これが承久の乱である❹。
乱後、幕府は皇位の継承に介入するとともに、京都にはあらたに六波羅探題を置いて、朝廷の監視、京都の内外の警備、および西国の統轄にあたらせた。また、上皇方に ついた貴族や武士の所領 3000余ヵ所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命した❺。
これによって畿内・西国の荘園・公領にも幕府の力が広く及ぶようになった。朝廷では以後も引き続き院政が行われたが、この乱によって、朝廷と幕府との二元的支配の様相が大きくかわり、幕府は優位にたって、皇位の継承や朝廷の政治に も干渉するようになった。
執権政治
承久の乱後の幕府は、執権北条泰時の指導のもとに発展の時期をむかえた。泰時は、執権を補佐する連署をおいて北条氏一族中の有力者をこれにあて、ついで有力な御家人や政務に優れた人びと11人を評定衆❻に選び、執権・連署とともに幕府の最高の政務の処理や裁判にあたらせ、合議制に基づいて政治を行った。
また、1232 (貞永元)年、泰時は貞永式目(御成敗式目)51ヵ条を制定して、広く御家人たちに示した。式目は、頼朝以来の先例や道理とよばれた武士社会での慣習・道徳に基づいて、守護や地頭の任務と権限を定め、御家人同士や御家人と荘園領主との間の紛争を公平に裁く基準を明らかにしたもので、武家の最初の体系的法典となった。
幕府の勢力範囲を対象とする式目と並んで、朝廷の支配下には、なお律令の系統をひく公家法が、また荘園領主のもとでは本所法が、まだそれぞれの効力を持っていた。しかし、幕府勢力の発展につれて、公平な裁判を重視する武家法の影響は広がっていき、公家法や本所法の及ぶ土地にも武家法が影響をあたえるようになり、その効力を持つ範囲が拡大していった❼。
合議制の採用や式目の制定など、執権政治の隆盛をもたらした泰時の政策は、孫の執権北条時頼に受け継がれた。時頼は御家人の保護に努力して、その支持を堅めると共に、評定衆の会議である評定の下に新たに引付をおいて引付衆を任命し、御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ❽、敏速で公正な裁判の確立に務めた。
一方で、時頼は、まず前将軍の藤原頼経を京都に送り返し、1247 (宝治元)年、三浦泰村一族を滅ぼして(宝治合戦)、北条氏の地位を不動のものとし、やがて藤原将軍にかわる皇族(親王) 将軍をむかえた❾。
こうして執権政治は時頼の下に更に強化されたが、同時に北条氏独裁の性格を強めていった。
武士の生活
平安時代後期からこの頃までの武士は開発領主の系譜引き、先祖以来の地に土着し、所領を拡大してきた。彼らは、河川の近くの微高地を選んで館を構え①⓪、周囲には堀・溝や塀をめぐらして住んでいた。
館の周辺部には、国衙や荘園領主からの年貢 ・公事のかからない直営地を設け①①、下人や所領内の農民を使って耕 作させた。そして、荒野の開発を進めていき、自らは地頭などの現地の管理者として、農民から年貢を徴収して国衙や荘園領主に納め、とり分として加徴米などの定められた収入を得ていた。
彼らは一族の子弟達に所領を分け与える分割相続①②のを原則としていたが、それぞれは一族の強い血縁的統制の下に、宗家(本家)を首長とあおぎ、その命令に従った。
この宗家と分家との集団を当時は一門・ 一家と名づけ、首長である宗家の長を惣領(家督もいう)、他を庶子と呼んだ。戦時には一門は団結して戦い、惣領が指揮官となった。平時でも、先祖の祭りや一門の氏神の祭祀は惣領の権利であり、義務でもあった。 こうした体制を惣領制とよぶが、鎌倉幕府も政治・軍事体制に惣領制をとり入れており、幕府への軍事勤務(軍役)も、荘園領主・国司への年貢・公事の納入と同じく惣領が責任者となって一門の庶子たちにこれを割りあて、一括して奉仕した。庶子も御家人ではあったが、幕府とは惣領を通じて結ばれていた。
武士の生活は簡素で①③、自らの地位を守るためにも武芸を身につけることが重要視されて、常に犬追物・笠懸・流鏑馬や巻狩などの訓練を行った。
彼らの日常生活のなかからうまれた「武家のならい」とか「兵の道」「弓馬の道」などと呼ばれる道徳は、武勇を重んじ、主人に対する献身や、一門・一家の誉をたっとぶ精神、恥を知る態度などを特徴としており、後世の武士道の起源となった。
武士の土地支配
自らの支配権を拡大しようとする武士達は、荘園・公領の領主や、所領の近隣の武士との間で年貢の徴収や境界の問題を巡って紛争を起こす事が多かった。特に承久の乱後には、畿内・西国地方にも多くの地頭が任命され、東国出身の武士が各地に新たな所領を持つようになったから、現地の支配権をめぐって、紛争はますます拡大した。執権政治下の幕府が、公正な裁判制度の確立に努力したのも、こうした状況に対応するためであった。
地頭の支配権拡大の動きに直面した荘園・公領の領主たちもまた、幕府に訴えて地頭の年貢未納などの動きを抑えようとした。しかし、現地に根をおろした地頭の行動を阻止することは事実上不可能に近かったので、紛争を解決するために、領主たちは地頭に荘園の管理一切任せ、一定の年貢納入だけを請け負わせる
地頭請所の契約を結んだり、更には現地の相当部分を地頭に分けあたえる下地中分の取決めを行うものもあった。幕府もまた、当事者間の取決めによる解決(和与)を勧めたので、荘園などの現地の支配権は次第に地頭の手に移っていった。