文体って存在するのかしら【4分】
最近、けっこう頻繁に、noteでエッセイ(+短歌)を書いている。
ほんとうにありがたいことに、思った以上の反響をいただいていて、私ユミヨシは、日々ほくほくして過ごしている次第だ。
そこで、なのだけれど、いただいた感想のなかに、私の「文体」に関わるものがいくつかあった。
実は、というほどのことでもないが、かなり前から文体に興味があり、いろいろと考えていることが積もりつつある。
そもそも文体というものは存在するのか、存在するとすればそれはいったい何者なのか、今日は、そんな話を書こうと思う。
日本一有名な文体
文体、と聞いて私が最初に思い起こすのは、村上春樹の文体。
私が村上主義者(俗に言うハルキストのこと)であることも大いに影響してはいるだろうけれど、日本でもっとも有名な文体とは、村上春樹の文体ではなかろうか。
世の中には、文体模写という特殊技能をお持ちの方がいらして、その人は声帯模写(=ものまね)のように、他人の文体をまねることができる。
私にとってその人とは、菊地良。
『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(宝島社)という本があって、いっときかなり話題になったように記憶しているのだけれども、その際に各メディアがいちばん大きく取り扱ったのが、村上春樹の文体模写だった。
そのことは、菊地良による村上春樹の文体模写の完成度がすばらしいということはもちろん、前提として、村上春樹の文体の知名度が高いということを意味するはず。
ここまで、村上春樹の文体というものが存在する、ということをしれっと決めつけた、ちょっとずるい話の展開をしてしまったのだけれど、さて、「村上春樹の文体」が存在するとして、それはいったいどういうものだろう。
文体はリズム
サンドイッチとスパゲッティがよく登場する。
主人公やそのまわりの人たちがお酒をよく飲む。
地下深くに落ちる。
壁を抜ける。
これらは村上春樹の小説の特徴だが、こういった要素も、文体と呼べるのだろうか。
たしかに村上春樹の小説には、サンドイッチとスパゲッティがよく登場するけれど、サンドイッチとスパゲッティが登場するからという、それだけの理由で、村上春樹の文体が村上春樹の文体たりえているわけではないことは、あきらかだ。
サンドイッチやスパゲッティのいっさい登場しない、村上春樹のうどんにまつわるエッセイを読んでも、私は村上春樹その人の文体をひしひしと感じる。
よく登場するモチーフ、シチュエーションはもちろんのこと、語彙とか、漢字の閉じ開きとか、一文の長さとか、句読点の打ち方とか、そういった複合的な要素で、私たちは「文体」というものを感じ取っているのだと思う。
それらの要素は、きっと無限にあって、その無限のなかで、少しでも多くの要素を発見し、再現する能力がある人が、文体模写のうまい人、ということになるのだろうか。
インタビューで答えていたことだったと思うのだけれど、村上春樹ご本人によると、文体にはリズムが大きく関わっているらしい。
リ、リズム?
書き手が書いているときのリズムなのか、読み手が黙って読んでいるときのリズムなのか、声に出して朗読しているときのリズムなのか、そのぜんぶなのか。
たぶん、ぜんぶなんだろうな。
かくいう私も、言葉のリズムはとても大切にしていて、短歌を詠むときには完成した歌を必ずいちどは声に出してみて、そのリズムが心地よいかを確認する。
(心地よくなさを確認する、ということもたまにある。)
文体はリズム、というのはかなり言い得て妙で(世界的作家なのだから当然)、さきほど挙げた複合的な要素の例、語彙とか、漢字の閉じ開きとか、一文の長さとか、句読点の打ち方とかは、ぜんぶリズムに通じてくる話なのである。
文体はリズム。
ほほーう。
ユミヨシの文体
はてさて、文体はリズムだとわかってきたところで、今度は、ユミヨシの文体って存在するの、という話。
私の短歌は、明るいとか、爽やかとか言われることが多くて、私のエッセイは、あたたかいとか、読みやすいとか、包み込むようなとかそんな感じらしい。
(列挙していて、勝手に照れるユミヨシ。)
そういえばだけれど、短歌って文体のうちに入るんだろうか。
歌体、という言葉もあるけれど、歌体も文体のうち、なのだろうか。
ううう、わからない。
私は、文体というものに漠然とした憧れがあって、自分だけの文体が存在していてほしいし(かっこいいから)、存在するのならそれがどんなものかすごくすごく知りたい。
文体、文体、ってずっと書いていたら、ちょっとゲシュタルト崩壊ぎみ。
文体、文の体。
文の体って何。
言葉はすべて借りもの
文体のことを考えていたら混乱してきたので、もうちょっとやさしいことに立ち戻って考えてみる。
文体を形づくっているのは文章で、文章を形づくっているのは文で、文を形づくっているのは、他ならぬひとつひとつの言葉だ。
生成文法的な話に踏み入るのはあまりに怖いので控えるものの、人は生まれてくる段階では、言葉をひとつも知らない。
ママが「ママですよ」って言うから「ママ」って言えるようになるし、テレビから「プリキュア」って流れてくるから「プリキュア」って言えるようになる。
そう、言葉は、元はといえばぜーんぶ借りもの、なのだ。
なのに、村上春樹の紡ぐ文章を構成する言葉は、ぜんぶ借りものだったはずなのに、なのになのに、そこには、紛れもなく村上春樹オリジナルの文体がある。
ここに、文体の神秘があるのだと思う。
おわりに
借りてきた言葉、言葉の結晶が僕の世界になりますように/弓吉えり
私の詠む短歌も、書くエッセイも、ぜんぶぜんぶ借りものの言葉でできている。
いつか、その言葉たちのひとつひとつが結晶となって、私だけの世界、文体になってくれたらどんなによいことか、と祈るようにして思う。
今日の題、「文体って存在するのかしら」に対する答えはおそらくイエスで、でも、だからといって、ユミヨシの文体が存在するのかはわからない。
ユミヨシの文体が存在するとしたらそれはいったいどんなものなのか、存在しないとしたら、どうすれば存在させることができるのか。
あまりにも謎めいていて、私の頭のなかでは、糸くずがくるくるっとぐちゃっとしてひっついて固まっている。
存在すると思えば存在するし、存在しないと思えば存在しない。
文体って、そういうものなのかもしれない。
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