バリ島からの手紙
2024
06-13
APR
拝啓
様
万緑のみぎり
そちら日本におきましては、木々の緑が色濃い時期に移り変わったと思われますが、あなたさまにおかれましてはこの季節、一体どのようにお過ごしでしょうか
わたしは今、バリ島に来ています
バリ島からの手紙
昨年の暮れに、この<note>のアカウントを一時凍結状態にし、各種ディジタルデバイスからはアプリケーションを削除し、メールの通知も停止してからおよそ半年振りにこの世界へ戻って参りました
昨年最後のわたしの記事にその理由は誤解なく明記させて頂いた通り、本年は幕が上がると同時に仕事に忙殺される身となったからです
先だってようやくその前半戦を終え、ここインドネシアの、Idul Fitri(断食明け大祭)の休暇を利用して、わたしは今、住まいのあるスマランから東に位置する、世界的な観光地でもあるバリ島の、世界中のサーファーが集まると言われるSeminyak Beachにほど近いコテージを借りて、よく冷えたビンタン・ビールを飲みながらこの手紙を書いています
今回のバリ島旅行は、一週間とまとまった日程を確保しておいたので、当初は滞在エリアも「クタ」や「ウブドゥ」、「レギャン」などを転々としながら宿を変えていこうと計画していたのですが、渡航直前にそれが急に億劫になり、ひとまず最もビーチから近い宿に焦点を当てて練り直し、結果的にここ「スミニャック地区」のROOM SWEET ROOMというコテージ風の宿を見つけ、ここに一週間、「籠城」することに決めたのです
なぜ「籠城」なのかは明白で、この休暇を利用してこの<note>で、再び記事をいくつか書こうと思い立ったからなのです
すでにここバリに来てから数日が経過していますが、ここでのおおよその生活のリズムのようなものが生まれ始めています
早朝、だいたいいつも通り6時には目覚め、散歩を兼ねて宿から200mほどのビーチに行くと、すでに、主に欧米人と思われるサーファーたちが、早くもボードにうつ伏せになり、眼前のフローレス海が無限に、そして永久に生み出し続ける高波に向かって、匍匐前進をするかのように沖に向かって進んでいきます
それは、おそらくはここバリのビーチでは日常的な光景なのでしょうが、わたしはどれだけ見ていても不思議と飽きず、毎朝砂浜にダイレクトに座っては胡座をかき、近くの店でテイクアウトしてきたツナ・サンドイッチと熱々の珈琲だけの簡素な朝食をとりながら、ひとり、またひとりと沖に消えていくサーファーたちを飽かずに眺め続けるというのが習慣となりました
そしてわたしももちろん、ある朝に、人生で初となるサーフィンに挑戦しました
無限に続いているかのようなこの広大なスミニャック・ビーチの砂浜には、サーフボードを貸し出す露天のような店がいくつか点在していて、価格を聞けばどこも一律、1,000円/1時間で、わたしはその店のひとつで濃い青のボードを選び出し、誰にも何も教わらずにひとりで沖へ繰り出し・・・何度か、天国にいる父親に会いに行くような、憂き目に遭ってしまいました
しかしそれを数日続けると、とにかくまずはボードの上になんとか立てるようになり、30回に1回程度の頻度で、何とか「波に乗る」ことができるようになりました
そして素人ながらも、どうしてここバリ島がサーファーにとっての世界有数の「聖地」と呼ばれるかの、そのおおまかな理由が垣間見えてきました
その理由とはもちろん、「波」にあり、波高まではわかりませんがかなり高い波が沖合で生まれ続け、それが繰り返し繰り返し、エンドレスに砂浜へ目がけてやってくるのです
その波の高さは、わたしがこれまで見てきたどの国のビーチよりも明らかに高く、しかも「波乗り」に失敗したとしても何度も挑戦でき、加えて広大な面積の、このゆったりとしたビーチの広さが他の誰にも迷惑をかけることがないので、そうした要因が世界中のサーファーを惹きつけてやまないのでしょう
そしてサーフィンはいわずもがなですが、初期投資でサーフボードさえ購入してしまえば、後はほとんど費用がかからず、体力が続く限りは延々と、陽が暮れるまで遊びつくすことが可能なのです
だからわたしも、ほとんど毎朝このビーチに来てサーフィンの真似事で楽しむようになりましたが、ある日の午後、それは午前中に<note>の執筆を集中して行い、気分転換に出かけたビーチでは、海は前日の様相とは打って変わって満潮となり、海が大荒れに荒れていました
そこで顔見知りとなりつつあったSURF RESQUEの屈強な男と荒れた海を見ながら立ち話をしていると、その会話は全て英語だったのですが、その時に彼が言った台詞をあくまで恣意的にわたしが翻訳すると、おおよそ以下のようなことを言われたことになるのです
今日はあんたのような雑魚が、ボードを持ってうろちょろしていい日ではないんだぜ?
承知いたしました、とわたしは素直に、そして深く頷き、この日はサーフィンではなく「撮影」に切り替えてバッグからカメラを取り出し、日が暮れ、お腹が空くまで周辺を撮影することにしました
<note>を休止していたこの半年間とは、実に様々な出来事が続いた半年間でもありました
しかしここであなたに、わたしの仕事の話を聞かせてもきっと退屈されることでしょう
人が語る仕事の話とは、大抵の場合は退屈だとわたしは個人的に強く感じていて、そうした話には多くの場合、意図せずとも、どうしても愚痴へと繋がり兼ねない危うさのようなものが含まれているように思えるからなのです
今年の1月と4月の帰国休暇の際に、久しぶりに高校と大学の同級生たちと会って福岡で酒を飲みましたが、不思議なことにその日集まったメンバーの中では、まるで共通認識のように、誰もが仕事の話は酒席へ持ち込みませんでした
それはこれまでの経緯を考えると実に不思議で、その事実に対してわたしはこのような仮説を立てているのです
それは結局のところ、愚痴を含めた仕事の話とは、少なくとも同じ職場の人間でない限りは共有しきれない、伝えきれないという、当たり前の事実にようやく気がついたと思えているのです
だからきっと、その時の会では誰も仕事の話を持ち出さなかったのでしょう
若い頃は、もちろんわたしを含めて、まるで、俺ほど不幸な会社に勤めている人間はいない、や、俺ほど忙しい人間はいない、ブラックの中のブラック、くそったれ、というような勝手なことを皆が言いふらしていましたが、30代の中頃からはそれを聞いた友人同士では、うちも同じよ程度のあっさりした回答で済まされるようになり、40代の今となっては、まるでシンクロニシティのように、あらかじめ決められてもいないのに、仕事上の話を友人たちとの酒席へと持ち込むことが綺麗になくなったのです
しかし、無論、それぞれが職場の同僚たちとは酒場で愚痴を言い合ってはいるのでしょうが、それはそれで良いのです
だからわたしはあなたに、具体的な仕事の話をするのは控えさせて頂きますが、しかしその仕事にどうしても関わらずにはいられない、二つの大きな出来事があったのです
ひとつはまず、「天変地異」の脅威でした
わたしはここインドネシアに着任してから3年目に入りましたが、この国は「雨と水の国」という印象を強く持っています
何しろこの国の首都であるジャカルタは間断ない大雨の影響ですでに水没し始め、この先に首都移転を控えているという、アジア諸国の中でも極めて珍しい特異な国なのです
雨季の最中の今年の初め、いつものように夕方頃に降り出した雨が、夜には激しさを増し、そのまま止まずに数日間降り続きました
交通が遮断されてしまうと、主にバイクで通勤してくる現地従業員の通勤に直接の影響を与え、しかもその影響は甚大で、遅刻や欠勤者が急増して生産計画を修正し、そしてその従業員の中には正確に2名の家が浸水、というよりかは水没してしまったのです
なぜ浸水ではなく水没なのかは明白で、室内へ侵入してきた雨の水嵩が3mにまで達すれば、それはもう水没としか言いようがないのです
この大雨がもたらした洪水で、幸いなことにわたしの周りの現地スタッフに死者は出ませんでしたが、このときの大雨はわたしが住むスマランだけでなく、インドネシア全体に深刻な爪痕を残し、そしてまるでこの雨が、その後の「天変地異」への開幕を鋭く宣言するかのように、次々とここインドネシアに襲いかかってきたのです
それは、当時の記事をここに無造作に並べただけでも、あなたによく理解していただけるのかも知れません
思わず目を覆いたくなる記事ばかりなのですが、残念ながらまだ続くのです
わたしは昨年の暮れから、スマランの高台にあるエリアの高層アパートメントの17階の角部屋で生活していますが、大雨の夜に、眼下に広がる雨に滲んだ夜景を陶然と眺めていると、時折、言いようのない不安に、まるで発作のように襲われることがあります
使い古された安っぽい表現にはなるのでしょうが、この都市に延々と降り注ぐ止まない凶雨は、どうしてもわたしには世界の終わりや、世界の果てを想起させる、ディストピアのように歪んだ光景に映ってしまう時があるのです
そうした不気味な天変地異の日々の中で、2月には同じ職場の現地女性従業員がある事件に巻き込まれ、残念ながら絶命しました
それはいうまでもなく殺人事件で、あなたにここでその詳細を語るということはいたしませんが、激しい暴力を受けた果てに脳溢血を発症し、半身不随となって深い昏睡に落ち、一週間が経過した夜に入院先の病院のベッドの上で静かにひっそりと、この世界から退場していったのです
その彼女のことはわたしはもちろん知っていました
しかしながら、彼女の名前までは知らなかったのです
同じ職場で共に働きながらも、その彼女の名も知らなかったとは、あるいはわたしは冷徹、いや、少なくとも日本人幹部としては失格なのかも知れませんが、職場には約150名の現地スタッフが在籍していて、各部署の掲示板には顔写真と名前を明記はしているのですが、しかしそれでも、全てのスタッフの顔と名前を覚えきれていないということが、何よりもその理由なのです
しかしわたしはこの名前も知らなかった彼女との間に、エピソードとも呼べない本当に小さなエピソードがあるのです
その小さなエピソードとはわたしの帰国休暇に関する内容で、帰国の際はその日程を職場の関係者に、インドネシアでは定番のSNS、Whats APPで一斉に周知するのですが、あれは去年だったか、職場の通路ですれ違った彼女がわたしの姿を認めると、その場にいた他のスタッフの背中に咄嗟に隠れながらも、しかしおどけたような口調で、恥ずかしそうに顔を隠してこちらをチラ見しながら、わたしにこういったのです
ミスター?ご帰国されるのですね
わたしへのお土産は、シセードー、シセードー、シセードー🎵
シセードーとはもちろん、SHISEIDOで、だから資生堂とあてるのでしょう
かつてわたしが働いていたヴェトナムでも、現地の女性スタッフからお土産としてせがまれるのは群を抜いて、このシセードーでした
少なくともわたしがこれまで見聞きしてきた限りでは、東南アジアの若い女性の憧れは日本の資生堂であり、それはもう単なる憧れというよりかは信仰に近い対象でもあるのです
そこではわたしたちは「日本人」でも「外国人」でもなく、あくまで「資生堂の国から来た人」なのです
褐色の肌をもつ彼女らは、繰り返し日本人女性の肌の白さの美しさをため息まじりに語るのですが、どうなのでしょうか
わたしには彼女らのみが持ち得る、健康的で輝くような褐色の肌も特権的な美しさを秘めているように思えてならないのです
「事件」が発生した翌朝、この彼女がすでに昏睡状態に陥ったと、職場のインドネシア人の女性総務部長から報告を受けた時、彼女の名前も知らなかったわたしは
あぁ、”シセードーちゃん”・・・あの、”シセードーちゃん”のことだったのか
と、初めて認識するに至ったのです・・・
そしてもちろん、そのシセードーちゃんにお土産をせがまれた当時、帰国休暇を終えて戻って来たわたしは彼女にお土産を買ってくることはありませんでした
職場の女性一人に対してそうしたお土産を買ってくることなどはできないのです
いや、それは女性だけでなく男性でも同様です
なぜならば、それは言うまでもなく、150人全員へお土産を渡さなければならなくなるからなのですが、しかし、もしも、シセードーちゃんが今も生きているのであれば、そう、何とか無事に生還して、職場に元気一杯に戻ることができていれば、わたしはシンガポールか日本の空港の免税店で、彼女のためにささやかな資生堂をひとつ購入し、誰にもきづかれないようにそっと手渡していたはずです
しかしもう、彼女はこの世から去っていってしまったのです
「天変地異」と「殺人事件」
今年の前半に起きたこの脈絡のない二つの事象は何かを物語っているのでしょうか
いえ、きっと何も物語ってはいないのでしょう
少なくともそれらは、ここが海外、それもインドネシアという特異性は一切ありません
なぜならばこの二つの事象は、少なくとも日本でも同様に発生していると思えるからです
「天変地異」に関しては、海外から地震大国と呼ばれる日本では今まさに、近い将来に壊滅的な巨大地震が発生すると思わせるような、大小様々な地震が日本列島各地で頻発し、「殺人事件」に関しても、残念ながらオンラインニュースのサイトを俯瞰すると、ほとんど毎日のように日本のどこかで発生しているようにも錯覚してしまうからです
これら二つの事象に対して、僅かに共通点を見出すのであれば、それは結局のところ、世界のどこにいたとしても完全には逃れることができないという、諦めにも似た思いだけなのかも知れません
そう
わたしたちはそうした世界をなんとか生き抜くしか、他に選択肢を持たないのです
そうした陰惨なニュースが今年の前半に立て続いたこともあり、わたしは今回の休暇での渡航先を、ほとんど迷わずにここバリ島にすることにしました
ビーチで太陽を浴びながらサーフィンを楽しみ、疲れたら昼からでもよく冷えたビンタン・ビールを飲み、空調を利かせた宿のベッドで眠りたいだけ眠り、夕方には外のテラスに出て安価なバリ・ワインのボトルを開け、隣のコテージに滞在している老齢のデンマーク人夫妻と乾杯したりと、何の事件もない、だから穏やかな休暇を満喫しているのです
要するにわたしは、ひたすらダラダラしたいがためにここバリ島にやって来ているのです
陽が完全に落ちて辺りが暗くなると、わたしは夕食を兼ねてここスミニャックのメイン通りをあてもなくぶらついて、目についたレストランで夕食をとります
そしてこの地に来て初めて理解したのですが、このスミニャック地区は瀟洒なブティックが通りに多く立ち並ぶ、バリ島の中でも有数の「買い物エリア」であり、夜になるとまるで暗闇から浮かび上がるかのような控えめのライトがお店のウィンドウに灯り、多くの観光客がそうしたお店に吸い込まれていきます
わたしにとってここバリは、サーフィンや美食の島ではなく、あくまで「買い物の島」でした
他にも食事用の木製のスプーンとフォークやスーツケースに貼るステッカーなど細々としたものをいくつか購入しましたが、迷いに迷ったのは厚手のリネンを手作業で織り込んだ真っ白なシャツと、おそらくはパイソン・レザーを黒染めにした二つ折りのマネークリップで、それらを扱うお店には滞在中に何度か通うも、最終的には断念することにしました
しかし、それで良いのです
このバリ島にいくらか心を残しておけば、いつかまたここに戻って来ようと思える動機の、それは最初のひと蹴りとなるからです
そして、こうしたここバリでの穏やかな日々の合間に、<note>の記事を4本だけ書き上げることができました
いや、それは3月の連休で旅行先のジャカルタのホテルでも、ほとんど缶詰状態で書いたので、必ずしもここバリだけで書いたのではないのですが、とにかく4本は書くことができたのです
実はわたしは、この半年間の凍結期間を逆手に取る形で、合計8本のエッセイを仕上げる計画を立てていて、それはそれぞれが独立したノンフィクション・エッセイなのですが、イメージとしてはその8本を通して、「一冊の本」となるような構成を先行させて考えていたのですが、やはりなかなかどうして、うまくいかないものです
それらの内容は、この世に「入場」してきた者たちと、すでに「退場」していった者たちとの思い出を、それぞれが独立したエピソードとして交互に並べ、それを主軸とし、その隙間を埋めるように短いコメディ調の話を配置しようと考えていたのですが、そのバランスが非常に難しく、とにかく今は、先行して書き上げた、主に「退場」していった者たちとの物語を、順次あなたへと公開させて頂く流れとなります
今年の後半は前半以上に仕事に追われる見込みで、すでに書き上げた4本を公開した後は、再びこのアカウントを凍結させて、本来わたしがすべきことに集中しなければなりません
そして先ほど、下書き用のアカウントで書き上げた4本の記事をこの本アカウントに全て移植させました
昨年同様に週一本の公開で、毎週土曜日の朝に自動公開されるようにすでに設定を終えています
最後にその4本の記事の告知をさせて頂いて、今回のあなたへの手紙はここで筆を置こうと思います
告知
2024年6月1日(土) 日本時間 AM 7:00
次は、誰かの葬列で再会するのだろう
2024年6月8日(土) 日本時間 AM 7:00
H氏への斬奸状
2024年6月15日(土) 日本時間 AM 7:00
続・H氏への斬奸状
2024年6月22日(土) 日本時間 AM 7:00
それでも、タフでなければならない
追伸
先ほど、この本アカウントを「解凍」させると、そこには1,200件を超える通知が表示されていました
誤解なく申し上げておきたいのが、そうした数字を何もあなたに自慢して、頭を撫でて褒めてほしいわけではありません
いや、やはりいくらかはそうした背伸びしたい気持ちも、わずかにどうしても混じってしまうのでしょうか
しかしこの数字の内訳は、おそらくは間違いないのでしょうが「みんなのフォトギャラリー」でわたしの写真が使用されたという通知が大部分を占めているはずです
昨年に書き上げた記事内に挿入した写真は、ほとんど例外なく機械的にギャラリーへ移し、多い日はその写真が使用されたという通知が日に10件ほどは入っていたので、そうした内訳の予測を立てることができるのです
しかしながら、ここであなたへ断っておかなければならないのは、その1,000件を超える通知の中には、あなたから頂戴している大切なコメントが、その数は少ないとはいえ、いくらか含まれているとわたしには思えてならないのです
およそ半年間という時間を要してしまいましたが、これからその全てを確認し、ご返答させて頂くつもりです
そのことを、最後にどうしてもあなたに断っておきたかったのです
そして、長くても1ヶ月程度の限定的な「解凍」とはなるのですが、あなたがこの半年に書き上げられた記事は、これから余さずに読ませて頂きます
その記事の中なのか、あるいはわたしがこれから公開する記事の中になるのかは分かりませんが、そこでまた、あなたと、「再会」できればと強く願っております
では
また
Yukitaka Sawamatsu
バリ島
2024
おしまい
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