何者でもないくせに、何者かになりたくて日本を飛び出した。
朝起きたら雪がしんしんと降っていた。絶賛傷心中のせいでもう3日家から出ていない。こんな日はいつも悲劇のヒロインぶらないとやってられないので、なぜ海外に住もうと思ったのか自分語りをつらつらと…。
自己肯定感人生最高潮 期
私は関西人の両親の元に生まれ、千葉で育った。ごく普通のサラリーマンの父と専業主婦の母。俗にいう教育熱心な両親ではなかったが、読書好きで勉強熱心な父の影響からよく本を読んでいたこと、また歴史や地理に強く物知りな母のおかげで、中学生までの私はまぁまぁ勉強ができた。小学生の時のテストは大体100点だったし、中二で塾に通い出してからは5クラス中いつも一桁の順位だった。
部活動のテニスでも得意だった書道でもよく表彰されたし、ピアノが弾けたので、行事ごとではいつも前に出て、得意げに演奏していたものだ。割となんでも器用にこなし、やればそこそこできていたので目立った。そして我ながらモテた。
周りの大人によく褒められ、嬉しそうにしている母の顔が誇らしかった。この頃の自己肯定感の高さは今までの人生でピークだったと思う。
周りが出来杉くんで自分は特別ではないと悟る 期
高校に入ると、優等生だった私は、なんの変哲もないただのクラスにいる”一人”となった。県内の進学校に少し背伸びをして入ったのだが、自分より遥かに頭の良い人、私の比じゃないほど何でもできて目立っている人、また芸術の才能に溢れている人たちと出会う。
とにかくみんなセンスがある。
そして誰もそれを鼻にもかけず、とんでもなく性格が穏やかで優しかった。人として、私より一回りも二回りも出来た人たちばかりで自分の未熟さを思い知った。
どんなに頑張って勉強しても、せいぜいテストの順位はクラスの半分にしか届かなかったし、得意だったピアノも書道も、周りに埋もれ、披露する機会すらなかった。
当時母校では、non-noやzipperなどいわゆる青文字系が流行っており、スカートの下はタイツとスニーカーで彩り、リュックを可愛く背負う。ブラウスのボタンは首元まで締めて、ユニクロが多色展開し出した頃の、アースカラーカーディガンを羽織る女子生徒たちで溢れていた。みんなほわほわしていて可愛かった。
対して私は、ポップティーンを愛読し、シャツは第2ボタンまで開け、紺ソにローファーが鉄板。合皮のバッグにべージュのカーディガンを愛用し、金髪に染めたりなんかして。しかし振り切ったギャルになることもできず、中途半端なまま、ただただ浮いていた。
そして案の定、全くモテなかった。笑
失恋と受験失敗で人生最悪 期
高校三年生の受験。
結論から言うと私は大学受験に失敗した。恥ずかしい話、初めての彼氏への失恋から抜け出せず、勉強が全く手につかなかった。
生まれて初めての挫折だ。
これまで、”努力すれば大抵のことはなんとなくできるし、結局なんとかなる”と思っていた。
が、自分はただの恋に溺れて何もできなくなるしょうもない人間で、努力すら怠り、そして何者でもないということを思い知った。
希望する大学に行けなかった私の堕落ぶりは凄まじく、勉強することはやめ、大学はただ単位のために行くだけ。サークルでテニスばかりし、飲んだくれ、バイト尽くしの日々。何の意味もない生活だった。
いつしか、いつも人より劣等感を抱くようになった。そして、何者でもない自分に、何かしら存在意義をつけたがった。大学名なんて関係ないよ、とみんなは励ましてくれたが、いつまで経っても、卒業しても、就職しても、出身大学を堂々と言い出せず、ずっとコンプレックスだった。自己肯定感は下がっていくばかりだった。
自己肯定感爆下がり、自分は何者? 期
大学三年生の就職活動。
高校の友人はみな、誰もが知る大企業に受かった。優秀な彼らにとって当たり前のことだった。大学名がモノを言う社会。企業説明会の申し込みでさえ偏差値で足切りがあることを知り、世間の厳しさを知った。ここでもまた、劣等感を感じ自分を蔑んだ。
いつも大学のせいにして、努力を怠ったのは自分なのに。
それを薄々自分でも気づいていたのに。
いつしか自分を卑下することが癖になる。
どんどん自分のことが好きじゃなくなっていくある日、合コンでたった10分しか話していない男性にすら『自分のこと卑下するのやめた方がいいよ』と見透かされた。
私は何でこんなに自分に自信が持てないんだろう・・・
自分のことがよくわからないまま、就職した。
テレビ制作会社の職場はカオスで、罵詈雑言は日常茶飯事、暴力も当たり前の世界。(あくまで10年以上前の話)とにかく忙し過ぎて眠れないことで自律神経のバランスも崩し、ますます自分を見失っていた。
そんなある日、先輩から『ほんっとお前って空気読めないよな〜』と言われ、自分の中の何かが壊れた。それまでの価値観や言動を全否定された気がして、
え、待って?
私って、人の感情に敏感で他人の機嫌を伺うのが得意だと思っていたし、初対面でも話しやすいね、ってよく言われるからコミュ力が高い方だと思ってたんだけど。それが長所とすら思っていたのに、え、逆なの?私ってもしかして今までずっとKYだった??
・・・・・・・・え???!!!
と大混乱。
その時初めて、世間にはいくらでも敵がいて、私とは合わない人も私のことが嫌いな人もたっくさんいるんだということを知った。ちゃんちゃらおかしい話だが、23歳になり初めて気づくほど、それまでの私はぬくぬくと平和な世界で生きて来たようだ。
そして先輩たちからはいじ(め)られ、適応障害になった。今思い返せば、彼からしてみたらなんてことない一言で、そんな言葉を重く受け止めなくても良かったのに、10年経った今でもこの言葉が忘れられない。そしてこの時から、自分の言動や振る舞いに一気に自信がなくなり、
本当に自分が何者かわからなくなった。
尊敬する社長との出会い、少しずつ自信を取り戻す 期
初めての職場を逃げるように辞めてしまったことで、その後の一年は苦しんだが、留学や転職先で新しい人とたくさん出会い、少しずつ正気を取り戻していった。その中でもドイツやセブ島の留学でさまざまな国の人たちとの出会いにより、自分が重きを置いてた価値観は、世界から見たらちっぽけだということに気づいた。
特に学歴コンプレックスがひどい私だったが、外国にいれば誰も大学名で私をジャッジしない。世界は自分の想像より遥かに広い。日本よりもラフでスポンテニアスな人との関わりや生活がとても心地が良かった。特にドイツ語を習得したことは大きな自信につながり、いつしかドイツで生活することを夢みた。
2018年、留学から帰国した時に一人の女性と出会う。彼女はめちゃくちゃ美人で、そして眩しいくらい輝いていた。3つしか年齢が変わらないのに、従業員50人以上の人生を背負っている社長だった。
当時30代目前の私は、ドイツで仕事見つかるかな〜とぼんやり考えていた頃で、社長から『就活しながらでいいから、ちょっとうちを手伝ってくれない?』と言われたとき、絶対に断らせない圧倒的なオーラと勝ち気な自信に押され即座にOKしてしまった。
社長は忙しすぎて自分のスケジュールにさえ追いついてなのに、人のことをよく想い、人のためにばかり動く人だった。そして、出会ったばかりの私のことをとても可愛がってくれた。一緒に過ごす時間が増え、プライベートでも自信のない私にたくさんの経験やアドバイスを与えてくれた。
自然に、”この人の力になりたい”と思うようになり、就活は辞めそこでの仕事を増やした。ドイツに行きたい夢はどうするんだと、心で葛藤しながらも社長の魅力に絆され、ついていくことに決めた。
とにかく、私の仕事ぶりや存在を褒めてくれ、認めてくれたことが嬉しかった。そして少しずつ、ここなら自分の存在価値があるのではないか、と思えるようになった。
全て煩わしくなり退職を決意する 期
そうこうしているうちに3年が経った。会社はどんどん拡大し、従業員は3倍以上に。会社の成長は嬉しいはずなのに、毎日近くにいた社長との距離は、少しずつ遠くなっていく。それでも社長は、私がドイツへの生活を諦めきれていないことを知っていたので、何とかドイツとの架け橋になる仕事はないかと色々と一緒に考えてくれた。しかし感謝の一方、ぶつかることも多くなった。
今までと同じように、いつも褒められていた言動や振る舞いをしているつもりでも、なぜか怒られる。それが続き、自信をなくしていく。
今まで私の良いところもダメなところもハッキリと言ってくれ、おかげで少しずつ自分のことがわかってきたようなよう気になっていたが、社長の側にいると、だんだん何が正解かわからなくなり、発言することも億劫になっていった。
同じ頃、友人関係でも悩むことが多くなった。
自分の本心とは真逆の言葉で、相手を傷つけてしまったり、どのように想いを伝えたらよいのか、よくわからなくなっていった。自分の言葉に自信がないため、いつも誰かと遊んだ日の夜は、言った言葉を反芻しては後悔するようになった。
周りから言われやすい性格や振る舞いもマイナスに反応し、いじっているんだか本当に私のためを思っていってくれているんだか、わからないことも多々ありその度にモヤモヤしていた。
言われて傷ついた言葉も、いつも笑って流してしまう。だからその言葉たちがヤリと変化し、許容範囲をどんどん超えて心を突き刺してくる。
と考えることも多くなった。
周りの人も声も、自分も、全て煩わしくなってしまっていた。
とにかく面倒くさかった。何もかも。
仕事も、人間関係も、そして一番は自分自身をリセットしたかった。
辞め時だ、と思った。社長も私の変化に気づいていた。
そして退職の意を伝えた。
結局ここでも、私は何者にもなれなかった。
新たな生活、ふと社長の言葉を思い出す
そして、私はドイツに来た。
どうにか自分の存在意義が欲しくて、"何者か"になりたくて。
突然、かつて社長に言われた言葉を鮮明に思い出す。それは、働いて一年ほどが経ち、総務、労務、人事、経理などできることは何でもやっていた頃、
『私の役職がわからないので肩書きが欲しいです』
と言って返された言葉である。
『何のために肩書きが欲しいの?私は、肩書きによって態度を変えてくる人たちをたくさん見てきたから、むしろそんなの邪魔くさい。自分が納得してやっている仕事なら、何だろうとそれで良いじゃない。
だけど、そんなに欲しけりゃ自分で決めて名刺に書いていいよ。』
当時の私は、全くもって納得がいかなかった。ずっと自分の存在意義がわからなくて悩んでいた時期だったし、何者であるかをはっきりさせたかった。それが周りに認められている証拠だと思ったし、だからこそ社長にそれを決めて欲しかった。
結局私はその提案を断った。私はただの私のままだった。
この言葉から数年経った今、
もしかしたら答えはここにあるんじゃないか、とふと頭をよぎった。
私が"私"を認め、自ら存在意義を与えれば、肩書きなんて必要ないのかもしれない。周りと比べて落ち込んでも、自分が何者かわからなくても、自分だけの肩書きで自分を定義づけてあげればいいんじゃないか。そして肩書きは自由だ!自分は、何とでもなれるし、それは誰もケチをつけれやしない。だって誰にも見られないし、見せびらかすこともないんだから。
そうやって、今の自分の存在を認めよう。
人と比べるのはやめよう。そして、自分もそんな見かけだけの肩書きだけで判断するのはやめよう。
そんなことをずーっと考えてたら、書き始めた日から一週間が経ってしまった。
書き始めた初日は雪が降っていたのに、今日は生暖かい春の風が吹いていた。
さすがに一週間も悲劇のヒロインぶるのは疲れたので、このへんで。
詰まるところ、今も私は何者でもない私のまま。
でも、今はそれで満足している。
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