【ロックフェラー財団と太平洋問題調査会(IPR)の設立と関係】反日会議に日本人も‼
太平洋問題調査会(IPR)は設立当初の目的は、ロックフェラー財団とは全く無関係。
環太平洋の問題を民間の人々が戦争のない平和的解決のために設立されました。
1927年の第2回ホノルル会議からロックフェラー財団の資金提供が始まりロックフェラー財団の傘下へ。
1929年の第3回京都会議においてロックフェラー3世が加入。
ロックフェラー3世が国際共産主義者と繋がっていき満州事変を機に日本を戦争に追い込む。
日本の主張はどんなに正当であっても批判され追い詰められていきました。
驚くことに日本を戦争に追い込む会議に多くの日本人が反日側に加担。
蠟山政道、松本重治、尾崎秀実、近衛文隆、西園寺公一(さいおんぎきんかず)牛場友彦。
第4章
第1回ホノルル会議で太平洋問題調査会設立と目的
1925年夏(中国)第1回ホノルル会議。
この会議で太平洋問題調査会(IPR)を設立。
目的
・環太平洋民間の人々が集まり学術、文化交流をおこない平和的な問題解決
・問題解決のために数年に1度各国で開催
・(例)1924年の【排日移民法】でアメリカの移民規制に対し異議
を発言するなどとても純粋な会議
2022年現代の環太平洋パートナーシップ(TPP)
オーストラリア、ブルネイ、カナダ、チリ、日本、マレーシア、メキシコ、ニュージーランド、ペルー、シンガポール、米国及びベトナムの合計12か国
第2回ホノルル会議から太平洋問題調査会へロックフェラー財団の資金支援が始まる
1927年秋(カナダ)第2回ホノルル会議からロックフェラー財団の資金支援が始まる。
機関誌【パシフィック・アフェーアーズ】という雑誌が書かれるようになった。(反日、共産主義者のオーウェン・ラティモア編集長)
第2回ホノルル会議から日本批判が開始。
オーウェン・ラティモアは「支那(中国)と蔣介石は大変重要だ!」という記事を大量に書いていた。
ハルノートは米国財務省が穏和条件から過酷なものにすり替えた
ハル国務長官が日本に対する対等で妥当な条件のハルノート(真実)。
ルーズベルト政権の財務長官ヘンリー・モーゲンソウ(ユダヤ人)が日本にとって過酷なものにすり替えた(皆さんが知る太平洋戦争のきっかけとなるもの)。
すり替えられたハルノートを戦争勃発目的の内容に書き換えたのはオーウェン・ラティモアと財務長官補佐官ハリー・ホワイト。
オーウェン・ラティモアと財務長官補佐官ハリー・ホワイトは反日、共産主義者。
左側ハリー・ホワイト
第3回京都会議から太平洋問題調査会はロックフェラー財団傘下へ
1929年秋(日本)第3回京都会議・日本展
ここから太平洋問題調査会はロックフェラー財団の傘下(米国IPR)。
ロックフェラー3世はソ連のモスクワに訪問。
ロックフェラー3世
ロックフェラー3世は松本重治、蠟山政道と出会い意気投合。
満州事変がこの時起きる。
満州事変勃発により蠟山政道と松本重治が満州問題を担当。
蠟山政道
第3回京都会議では満州問題において反日日本人よる事実とは異なる書類が配られる。
内容は以下
・日本は高圧的
・日本は残酷
・大陸を侵略している
・日本の犯したあやまちを弁護するつもりはない
日本を大変批判する内容でした。
この書類には蠟山政道と松本重治が加担。
太平洋問題調査会は満州事変がきっかけとなり日本を戦争へ向かわせる。
松本重治
近衛文麿野望と挫折から
日本展は太平洋問題調査会に日本の誠実面をアピールのために開催
日本太平洋問題調査会(日本IPR)のメンバーは新渡戸稲造(旧五千円札)、松岡洋右、渋沢栄一(新一万円札)と大変誠実なメンバーが大量の資金を使い日本展を開催。
渋沢栄一
目的は第3回京都会議で日本を訪れた太平洋問題調査会のメンバー(共産主義者、誠実主義をふくむ)に日本をアピール。
・無料で太平洋問題調査会メンバーを招待
・日本の誠実な面
・満洲は日本統治でとても豊に発展している面
・満州統治には本土よりも税金を投入している面などアピール
しかし誠実な日本展見学は後々日本包囲網の材料にされてしまう。
松岡洋右
第4回杭州・上海会議では新渡戸稲造は太平洋問題調査会は反日だと気がつく
1931年秋(中国)第4回杭州(こうしゅう)・上海会議では中国経済の発展や労働問題について話し合われた。
しかし中国側から満州問題について指摘。
満洲の正当さを新渡戸稲造、松岡洋右、渋沢栄一は立派に主張。
新渡戸稲造
中国以外の各国からも激しく批判。
新渡戸稲造は設立当初の太平洋問題調査会をイメージしていました。
しかし日本を「押さえつけ」へと変更されていることにきずく。
新渡戸稲造は日本潰しの太平洋問題調査会だときずく。
第5回バンフ会議で新渡戸稲造は一生懸命日本を主張するが大批判され港で亡くなる
1933年夏(カナダ)第5回バンフ会議ではフランス、オランダ、蘭領東インドが新たに参加する。
日本の代表団は「太平洋の平和機構再建設」発表。
日本代表団の新渡戸稲造は太平洋の安全保障の役割を太平洋問題調査会に期待。
第5回バンフ会議でも新渡戸稲造は日本の正当さを一生懸命に主張。
第5回バンフ会議のイメージ
・1000人の全体集会で一人をいじめる
・友達だと思っていた友達(蠟山、松本)まで一人をいじめる
・正しい意見でも999人で否定する
・誹謗中傷をあびせる
会議の直後カナダの港で新渡戸稲造は精神的ダメージにより心疾患で亡くなりました。
IPRは国際金融資本と国際共産主義者の拠点確定日本人の姿も
新世界秩序(New World Order)の設立にソ連は必須と太平洋問題調査会は主張。
新世界秩序=グローバリズム(資本主義のために世界を1つに)
・歴史をなくす
・国境をなくす
・民族をなくす
ソ連派エドワード・カーター(共産主義者)が事務総長に就任。
国際事務局(本部)がニューヨーク(ロックフェラーセンタービル)へ。
日本を封じ込めるためにロスチャイルド傘下の国際金融資本、国際共産主義者、ソ連スパイの最大拠点となる。
日本人のメンバーは蠟山政道、松本重治。
近衛文麿が貴族院議員として渡米目的は国際金融資本との面接
1934年昭和9年5月に貴族院議員議長として訪米。
JPモルガン(ロスチャイルドの代理人)のトーマス・ラモント。
外交問題評議会の基礎をきずいたハウス大佐に会うことが目的。
表の目的は満州問題を国際金融資本に認めてもらうこと。
裏の目的は簡単にいうと敗戦革命に使えるか近衛文麿の面接です。
訪米をセッティングしたのが太平洋問題調査会の蠟山、牛場、松本。
トーマス・ラモント
第6回ヨセミテ会議は支那事変の計画と拡大会議そして日本人も加担
1936年夏(アメリカ)第6回ヨセミテ会議
牛場友彦、尾崎秀実、西園寺公一(さいおんじきんかず)、近衛文隆(文麿の息子)、ソ連が正式参加。
第6回ヨセミテ会議で支那事変をおこすと断定されていた。
尾崎秀実は事前レポートまで提出。
1年後の1937年に支那事変がおこる。
インクワイアリー・プロジェクトで日本の支那事変を徹底的に批判。
インクワイアリー・プロジェクト
支那事変は日本が悪いと決めつける反日プロジェクトで上海支店の社長は松本重治。
ハーバート・ノーマン(知日家で反日)によって国際通信社の社員を派遣
支那事変は停戦協定していたが日本人の近衛文麿と風見章が拡大
1937年7月7日 支那事変(中国連続テロ事件又は日中戦争)
・7月7日、盧溝橋事件(日本兵が盧溝橋で撃たれた)
7月11日に停戦協定が結ばれていた。
直後に近衛文麿、風見章の「北支派兵に関する政府声明」により拡大。
近衛文麿
風見章は「支那事変は私と近衛が画策した」と述べています。
その後起きた事件が下記
・13日 大紅門事件(日本兵が襲撃された事件日本人4名死亡)
・26日 廊坊事件(日本軍に発砲、迫撃砲を加えて14名の日本人死傷)
・27日 公安門事件(許可後に公安門通過途中に銃乱射日本人19名死亡)
・29日 通州事件
200人を超える日本人を大虐殺
この時の写真を南京大虐殺の写真にされている。
・8月9日 大山事件(停戦協定を結ぼうとするが大山中尉が殺害され白紙
・13日 第二次上海事変(5万の中国軍が日本人を襲うが日本海軍が応戦)
風見章
近衛文麿と風見章の政治思考
・支那事変の積極的に拡大
・日本での革命思考(支那事変は日本での革命手段)
・対ソ戦不拡大
・近衛・蒋会談をすすめた石原莞爾を誹謗中傷
・独裁体制としての新党(一国一党)づくり
第7回バージニア・ビーチ研究集会から批判嵐のため日本不参加
1939年秋(アメリカ)第7回バージニア・ビーチ研究集会
第二次世界大戦勃発直前のため蘭とソ連は参加せず英と仏のみ参加。
日本も7回~10回まで日本IPRも代表者派遣はなし。
参加者は36人にとどまり「会議」ではなく「研究会」とした。
テーマは「極東戦争の世界的意義」。
第8回モン・トランブラン会議では日本を分析し徹底的に日本を追い詰める
1942年冬(カナダ)第8回モン・トランブラン会議ではハーバート・ノーマンは大変日本に詳しい。
ハーバート・ノーマンを使い完璧に日本を分析。
最後の追い込みをかける会議。
第8、9回主に日本の戦後の処理について日本人教育も含む
1944年冬(アメリカ)臨時ニューヨーク会議では引き続きハーバート・ノーマンが担当。
・日本の占領政策について
・日本人の性格構造分析
・反日宣伝映画の製作
・アメリカ陸海軍の反日教育もおこなっていた
1945年冬(アメリカ)第9回ホット・スプリングス会議
・大戦終結前にして軍備撤廃
・領土の分担
・天皇の取り扱い
・日本人の反日教育
について話し合われた。
太平洋問題調査会の解散と結論
1961年冷戦、ロックフェラー財宝の支援終了でIPR解散。
太平洋問題調査会(IPR)は設立当初は大変正当な理由で設立。
しかしロックフェラーの資金提供が始まり、国際金融資本、国際共産主義者の反日総本部となる。
牛場友彦、松本重治、蠟山政道、尾崎秀実などの反日日本人も中心にいた。
日本を戦争に追い詰め、さらに日本敗戦後の処理までも決めていたのが太平洋問題調査会。