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当事者意識に資格はいらないのではないかな

先日、ツイッターで

「“哲学を学ぶ”って変じゃない? “哲学する” のでないと・・・」

という発言を眼にして、ああ、芸術や宗教や、伝統に関わる事なんかもそうだよなあと、わたしは思ったのです。

もちろん、最初は哲学とはどういうものかを知るために「哲学を知識として学ぶ」必要がありますが、それを知ったら、自分自身が哲学のなかにいないと意味が無い・・・。

宗教を学ぶ、というのもそうですね。「教えを知っている」のと「教えを生きる」のとは全く違います。

人は、特にちょっと頭の良いプライドの高い人は「名言コレクター」になってしまい勝ちで、偉人が発した名言を沢山知っていたり、それを会話や文章で引用する事で「自分もそのように生きている・・・少なくともそれを理解し、感心出来る精神的に上位の人間だ」と思い込み勝ちです。

むしろ名言が人の精神を歪めてしまい、性格をこじらせた「面倒臭い人」が出来上がってしまうというわけです。名言をコレクションしているだけで、実際に名言のように生きていないからです。これは良くある事ですね。まあ、偉人と呼ばれる人でも「自分が言った通りに生きているとは限らない」わけですが・・・

それでも、その発せられた言葉自体には美があります。

名言は薬のようなもので、薬にも毒にもなる・・・

話が少しズレました・・・

伝統工芸を例にしてみれば、伝統工芸のなかに色々な分野があり、それぞれの分野のなかに、さらに詳細に分野があり、それぞれ、大変深い世界があります。

最初は自分がやろうとしている分野・・・例えば「伝統工芸のなかの染色」であるなら、分野全体をざっくり掴むために学び、さらに詳細に自分に合った分野を自らの観察と行動で選び、進んでいく必要があります。

それは、自分の観察と行動と学びによって、自分のなかに伝統の資産が出来、それをどこに投資し、運用し、増やすか、という事なのです。

自分のなかに伝統の資産が出来たら、それが少額であったとしても

【自分自身でその伝統的文化資産を運用をする】=【自分がその資産運用の当事者になる】

必要があるのです。

そうしないと「伝統を自分自身のものに出来ない」のです。

伝統は人を過去に縛り付けるものではなく、人の未来の進化のためのジャンプ台なのですから。

伝統的文化資産を受け取ったなら

自分自身でその資産を増やす=自分を育てる

そのように考え、行動するのは自然な事だとわたしは考えます。

逆に、謙虚ぶって、いつまでもどこかの誰かの教えに頭を垂れているような態度は良くありません。それでは、伝統と自分が一体になれません。そうなれないのなら、その伝統はむしろ邪魔で、そういうものが伝統とされているのなら、その伝統は破壊するべきです。

しかし、世の中では何だか良く分からない権威や、自分の所属団体のエライ人の後追いをする事が謙虚で真面目な人、という扱いになるようです。

・・・そして「伝統という資産を受け取ったなら、それを運用し、増やして次世代に渡して行くのが自然」だと思います。

もちろん「ちょっと知ったら、その後は自分勝手にやるのが創作」という意味ではありません。学びは古いものから、新しいものから、常になければなりません。もし、ちょっと知って自分勝手にやったとしても、その人がその作品を伝統の何かと並べて確認すれば、それはただの思いつきの浅はかなものに過ぎない事を発見するでしょう。そういう面でも、伝統は大変に役立ちます。

例えばお金の投資や運用に関して、その手の本を読んだりセミナーに参加して沢山知識を得ても、自分自身で投資・運用しなければお金は増えず、単に「知識があるだけ」ですよね。

それは当たり前の話なのですが、これが芸術や哲学や伝統・・・その他の事になると「遠い話」になってしまうのです。

「全て人為に過ぎない」のに。

いわゆる芸術や哲学や伝統などに関して上記のような事を、学歴も社会的認定も一切無い、わたしが言うと「え?オマエごときが哲学や伝統の当事者を名乗るなんて傲慢じゃない?(嘲笑)」といった反応をする方々がいらっしゃいますが、しかしそういう人は、悪い権威や権力の思うままに洗脳されているから、そう思うのではないか?と思います。そのような方々は・・・恐らく大変真面目で素直なのでしょう。

そういう方々は、いわゆる芸術や哲学や伝統は、何か特別なもの、手の届かない雲の上のもの、高尚なものだと、どこかの誰かに思い込まされているのです。

本当は逆で「それらは全て当事者意識を持った瞬間に当事者になれる」し、そうあるべきなのに。

「悪い権威」にとっては「当事者」がたくさん出てきたら困ります。

「当事者」は自分で観察し、自分で考え、行動します。それが「悪い権威」にとって望ましい方向へ行くとは限らないのです。むしろ、違う方向へ行くでしょう。

だから「手の届かない所にある」としておいた方が都合が良い。そうでなければ「悪い権威」は商売がやりにくい。

悪い権威が「真摯に伝統文化を学ぶ謙虚な人」とするのは、ただ与えられた価値観を受け止め、観察せず、考えず、従い、喜んで自らの財産を寄進する人たちですからね。

もちろん、何かの文化や芸や、知識、その他いろいろな事に誠実に長く関わり、維持・発展させている家系があり、それを統率している人があれば、わたしはその一族や個人を尊敬します。

ただし

伝統の技術的な事ではなく、本質部分というのはその人やその家系の独占的な所有物ではなく公共的で、誰でも参加出来る性質を持つ

という事を言いたいのです。(タダでその流派独自の方式を教えろ、公開せよという意味では全くありません)

わたしは伝統の本質は

【時間や所有から自由になった人為】

と考えています。

古いも新しいもないし、固定した所有者もいない。

その集まりが伝統。

伝統は、いわゆるモノだけに限らず、もっと大きく自然と関わる事にも産まれます。

一見、自然に見える畑や田んぼや、管理された森などは、人の利益のために作り出されたものです。自然を人間にとって有益な形で管理・運用し、安定的な利益を得る事、それが長年続き、洗練されて行けばそれが伝統化します。

多く、自然は、そのままでは人に対して優しいどころか厳しい。恵みも強烈な厄災も両方運んで来るのが自然です。なので人為により、恵みの方を多く運んでもらえるようにする必要があります。それらは人間の生命に直接関わる事ですから、人はイヤでも当事者として関わらなければなりません。

人為と無関係な自然物や自然自体は伝統とは関係ありませんが「人為が関わる自然」は、モノと同じように伝統になるわけです。

伝統は何も、美術、工芸、芸能、その他、いわゆる文化的な物事のみにあるのではありません。人の生活のあらゆる所に伝統があります。なので、基本的に人は、生活しているだけでも伝統に参加しています。

ようするに、伝統というのものは、人の実生活のなかで、始まりも終わりも範囲もない公共的なものです。

それが本質的なものであるほど、個人のものではありません。どこかの家元の個人的な所有物ではありません。伝統とは開放されたもので、万人に恵みを与えるものです。

伝統というものは、何も特別なものではなく、かつ「現実的な人為の積み重ねでしか得られないものだから尊い」わけで、伝統の短い国などは、伝統を捏造してまでそれが欲しいのです。それは「伝説ではない(物語ではなく事実)」からです。

伝統に変な権威をつけたり特別視する事で、伝統自体を自分から遠ざけ、そこに本当の意味で参加せず、ただ先生の言う事を踏襲する、先輩の言う事を踏襲する、というのは「伝統ではなく隷属」です。それは伝統の本質と真逆のものです。

繰り返しになりますが、

伝統は、人々を隷属させる力ではありません。

むしろ、次のステップのための発射台です。

今ある良いものも、今は機能不全を起こして悪い影響を与えているのも、先人が産み出したものです。全て人為です。「創作的人為」です。

その「過去の創作的人為」を整理し、総括して次に渡すための観察と実行は、何も伝統云々とは関係なく、誰しも持つべき当たり前の精神と姿勢ではないでしょうか?その全体の運動が、伝統と私は捉えています。

なので、単純に、自分が当事者であるという自覚と行動があれば、伝統に参加出来るのです。

「伝統は止まったもの」ではなく「常に変化し続ける生命体」です。どんなものでも運動が止まると死にます。それは伝統も同じです。


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