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田中公平氏による “ 仁平幸春論 ”

*2013年のものを2024年に加筆修正したものが届いたので、以前のものと入れ替えました。

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・・・彼の創作への姿勢はとてもシンプルだと強く思った。ただしシンプルだが単調ではない、可変性を持ったシンプルさと言ったら良いか・・・

この文章を書くにあたって仁平幸春から話を聴いて、彼が一般的な芸術家とかなり違う事に私は戸惑いを覚えた・・・彼には確固たる独自の創作・制作姿勢があるのだが、しかしそれは一般的な芸術界隈のそれではない。私は、私が今まで培って来た知識や経験の範囲とは違うところから飛んで来る彼の言葉に戸惑ったのである。

そして彼は殆ど過去の創作者や研究者の引用をしない。にも関わらず彼の創作・制作姿勢には整合性があり強い説得力がある。そして彼の創作理論とその作品に分離が無く完全に一致しているように観える。

そして彼は「私は極一般的な話しかしていない」と言う。確かに彼が私に語った事は芸術分野に限定しない(出来ない)性質のものだったからそうとも言えるのだ・・・それが余計に私を戸惑わせた・・・恐らく彼は私のいる場所とは別の場所にいるのだと感じた・・・

そんな仁平の話をまとめたものが以下である。

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仁平は自分の創作物を

自分の内部の感覚も含む、自分を取り巻く環境全てを‘’素材‘’として捉える

そして、

素材と、それに対面する自分のとの間の“関係性”に訪れるものを形にする

ただそれだけをし、その結果生まれたものだと語る。

彼は基本的に染色による作品を中心に制作しているが、絵画やその他の表現方法でも制作する。自分の感覚と考えを文章の断片にも残す。その広がりは料理にさえ及ぶ。陶芸や音楽もやりたいそうだ。

それは「表現するための媒体もまた“素材”」としているからだ。

しかしそんな彼の制作物は、やり散らかしたものには全く感じられない。バリエーション豊かな作品群でありながら、どれも仁平の個性が際立っている。

それについて彼はこう説明する

発生源が一つだからです。私は、“素材と私とその関係性”、そこから生まれるものをそのまま出しているだけです。だから対象が変わっても本質は変わりません。素材の種類の分だけバリエーションがありますから、バリエーション広くつくろうという意識もありません

と。そしてこう付け加える。

私は思想やスタイルを持ちません。それは、自分や素材を限定する“檻”だからです

しかし、それでは制作する作品に統一が取れず散乱したものになってしまうのではないか?という私の問いに

“思想”や“スタイル”は、その時代時代の流行で移ろいます。その移ろいは間違っているわけではなく、その都度ふさわしい形を持ちますが、しかしそれが本質ではないという事です。例えば、蝶が卵から幼虫、サナギ、そして蝶になるそれぞれの段階に意味がありますが、そのどれかが蝶の全てを語っているわけではないように。実際にはその全体が蝶という存在です。部分ではありません。思想は何かの“部分”を明快にしますが、それ以外を観えなくする可能性も持っています。ということは、私の思想であっても、それは私という存在全体のいち部分を表しているに過ぎず、しかもそれは移り変わるのですから、私は自らを統合する事は出来ない事になります

思想という檻の形式を個性と呼ぶのならその檻は個性なのかも知れませんが・・・しかしそれでは、延々と理論のための理論、文脈のための文脈、更新に次ぐ更新とキリが無くなり自縄自縛状態に陥ります・・・正に檻です

しかし“素材”は人間がつくったものではありません。それが人工物であったとしても人間はゼロから何かを生み出す事は出来ませんから、人間はただ関わっているだけです。私という存在も、私がつくったものではありませんし、私の存在そのものには思想はありません。ただその存在があるだけです。だからそんな“素材”と“私”の関係性に“自然に舞い降りるもの”は、人間がつくり出したものではなく“人間を超えた摂理そのもの”と私は捉えます。そしてそれも素材として私は制作するのです。私はそれを絶対的に信頼しています。素材自体が間違っている事はありえないからです。間違いがあった場合、私の間違いである事がハッキリしています

その“関係性に舞い降りたもの”を単なる思いつきで形にしようとしても反応せず動き出してくれませんから、正確な観察と熟考と適切な行為が必要です。しかし自分の思想で自縄自縛になる事は無いので楽とも言えます

こういう風に説明すると『でも、それもあなたの思想と言えるでしょ?』と揶揄する人もいますが、それは説明するとそうなるというだけの話で、固定した思想という事ではありません。そういう子供じみた揶揄をする人は、何かしらの事を言語化し説明しようとすると思想的な見かけを持ってしまう事を知らないのでしょうね。彼らは自らの頭と感覚で自らをそこまで追い込んだ事が無いからそういう態度なのでしょう・・・おっと話がズレました

しかし、そのような・・・ある意味受動的な姿勢では制作者の個性は発揮出来ないのでは?

いえ、いえ、それは違います。創作は基本的に創作のための行動を起こさない限り何も起こりませんし、そこで起こる事に対処するには観察と技術とスピードが必要です。非常に能動的でなければなりません。素材と私の“関係性に舞い降りたもの”・・それも素材と私は言いましたが、それは“舞い降りたものを変形させる事なくそのまま受け入れる”という意味です・・・例えば、眼の前にある板をどう加工したら一番相応しい仕上げに出来るか?を考える際に、まずは板のありのままの姿を観察し理解する事から始めますよね?そういう意味です。そしてそこに創作・制作のための精神的な燃料もあるという事も重要です。それらをなるべく変形無く受け止める必要がある・・・変形させると燃料の純度が下がるからです

“素材を開花させる者は、開花させられる者”なのです。私は素材を開花させる。それは同時に、その素材によって私自身の個性が暴き出されているという事です。だから私が自ら個性的であろうとする必要はありません。私の個性は自動的に引き出されてしまうのですから。それは私の創作活動と私の個性の発揮に分離が無い状態です。それはむしろ個性の純度が高いと言えないでしょうか?

現実的に、自らの制作思想云々を言う人でも、優れた作品を残した人たちは、そういう状況、そういう精神的集約状態で制作していたと思います。これは、私だけの方法でなく、分野を問わず制作者が集中している時には同じ状態になると思います。私は現実的な、当たり前の事実を説明しているだけです。私は何一つ変わった事をしていませんし言っていないと思いますよ・・・

・・・私は胸に溜まって来た疑問を彼に問うてみた・・・自分自身の存在すらも素材として把握しているのは分かるけども、ではその主体はどこにあるのだろう?自分自身も素材として扱う、もう一人の自分がどこかにいるという事?

いやいや、幽体離脱して上から観ているような感覚では無いですね・・・元々人間には“色々な自分”があって、そのなかに素材としての自分と観察者としての自分があり、普段はひとつの存在ですが、創作の際には観察者としての自分が大きくなるのだと思います。創作するタイプの人は、その観察者の面が強いのかも知れませんね・・・

・・・そのように自分自身を観た事のない私は少し違和感を感じたが、彼の姿勢としては理解は出来た。

・・・素材についてもう少し話を進めてみる。

彼は彼の制作したものも「素材」だと言う。「素材」にならなければならない、と言う。

それはどういう意味?との問いに

素材になるには“公共性”がなければなりません。みんなの役に立つもの・・・もちろん全ての人にとって、というのは難しいですが“根幹に開かれた性質を持っているものである事“・・・ともかく、古今東西、人間のつくりだしたもので“素材”になったものだけが、思想や時間を超える事が出来ると私は考えています。それは手の実用面でも精神面でも有益であり、表面上の形は変わるかも知れませんが本質を失わず、ずっと人々に使い続けられる物になるという事です。“素材に至ったもの”が、と言った方が良いかも知れません・・・

それは表現物であっても”個人の表現欲の垂れ流し”の欲望に流されないものです。そこに流されたものは簡単に時間の破壊力で淘汰されます。“人間がつくり出したもので素材にまで到達したもの”それは制作者の個性がむき出しでいながら公共的な素材として使われることと矛盾しません。自然物はそうなっていますよね?それは“極めて個性的かつ極めて公共的”です。それはいわゆる芸術分野のみの話ではありません。工芸品や科学技術や工業製品・・・あらゆる事に共通します

“有益”というのは、精神的な有益性、鑑賞的有益性も含まれます。実用性と言っても良いですね。社会的動物である人間は実用性や経済から逃れる事は出来ません。実用性が無ければ人間はその存在を認識出来ないのですから。芸術は実用性から切り離された純粋で高貴な精神の出来事・・・なんて事はありえないのです。芸術作品は「非常に強い審美的・精神的実用性」を持っています(整っているとかキレイとかいう意味ではない)これはとても重要な事です

それは現代における・・・民藝で言う“無銘性”と同じ性質だと私は考えています。人間のつくり出したものは、公共性を帯びる事で作者の名前が自然に消滅してしまうのです。それが作品において“素材化する”という意味です

話はいわゆる民藝で使われる「無銘」にまで及ぶ。

あなたのそういう独特な思想?いや、思想ではないか。“方向性”としておこうか、それは誰かからの影響?

私はあらゆるものから影響を受けています。しかし、基本的には眼の前にあるものとただ関わることによって自然にそういうものが私に醸成されただけです。しかし、どちらかというと、芸術云々よりも宗教的な方向性に近いようですね。私は宗教者ではありませんが。私が言っている事は、何一つ新しいものなんてありませんよ。私自身にある、そして恐らく誰にでもある当たり前の事実を説明しているだけですから・・・

そして続けて

それと“美”です。これがとても大切だと思っています。私は、人間は“美”という純粋なエネルギー体・・・素材と同じく人間には作り出せないものに突き動かされ導かれて、新しい創作的発想と、それを実現するための技術的発想を得て何かをつくり出すのだと思っています。ただし、“美”は“愛”と同じぐらい取り扱い注意な言葉だと思います・・・

一般的には、芸術家が美を湛えたものを生み出すみたいな感じに捉えている人が多いと思うけども、それについてはどう考えている?

それは、恐らく芸術家を“ゼロから何かを生み出す尊い存在”と捉えている人が言う感想なのだと思います。私は前に言った通り人間はゼロから何かを生み出す事は出来ないと考えています。それが出来るのは神だけです。いるのかどうかは知りませんが・・・当然、人間は美を“美単体”で生み出す事は出来ません。それゆえ美は必ず何かの媒体を通して顕現します。例えば、ある絵画に美が顕現しているとしたら、私はそれをその絵固有の美としては捉えません。“その素晴らしい絵を通して美が顕現した”と捉えます

美は、芸術家だけが扱うものではなく、人間は誰しも【美による一撃】を受ける事で創作的行動を起こす・・・私はそう考えています。人間が創作的行動を全く自発的に起こすのではなく・・・美自体は、至るところにありますから、芸術家に限らず誰でも、いつでも美の一撃を食らう可能性があります。誰だって美しく咲く桜に対面すれば、思わずスマホで写真を撮ってしまうでしょう?それも創作的行為です。ただし、その写真に美が顕現している事は殆ど無い・・・美は人為や人工物からは滅多に顔を出さないからです

例えば、美しい板がある。その美に突き動かされて作品を作ろうと加工をしたとたん、その美は姿を消してしまう・・・プロであってもそういう事が良く起こります。素材の時には美しかったのに、それを不適切に人為で変形させたためです。人間は未完成だから不適切な事をするのです

もちろん、この“美”はキレイ、という意味ではありませんし、人為・人工物では美術や音楽、その他いわゆる芸術分野のみにあるのではありません。例えば素晴らしい科学技術や数学の公式、スポーツの劇的瞬間、その他その他、何にでも美は顕現します。ともあれ、まずは“美による一撃を受けること”。それが“起点”になり、人は新しい創作をする・・・美はその活動を続けるための燃料でもあります

そして、人間が何かを作り上げて、そこに美を顕現させる事に成功すれば、それはいつまでも美しく、人々に美を与え続けます。なぜなら人為と人工物が美を顕現させた摂理自体に美が顕現するからです。そして“美は究極的な公共物”だからです

そして美は残酷なまでに平等です。人間がどんなに努力をしてもそれが現れる条件が整わなければ顕現する事はありません。逆に適当にやったとしても条件が整えば顕現します。しかも、その条件は一定のものではなく常に変化するから公式化は出来ません・・・人間に強い影響を与えるのに、人間の意思とは無関係なのが美です。美は変化しません。顕現する媒体が変わるだけです。ゆえに美が顕現すると、その媒体の特性がより明瞭になります。それは陽光のようです。だから信用出来ます。同時に、実に厄介なものでもあります

なるほど・・・しかし先に言ったような、美は芸術家が生み出すもの、という考えの人がその考えを聴いたら戸惑うだろうね・・・

私は「美は芸術家が生み出すもの」という考えの方に違和感を持ちます。その芸術家の生み出した美というものが実際には芸術界隈の独自の文脈でしか通用しないものが多いからです。その界隈にしか通用しないものであるなら、それは普遍でも何でもなく有難味も無いものだと思います。先に言った通り、私は美を究極的な公共物だとしているので、それはあらゆる分野に顔を出すし同じ性質を持ったものであると考えるわけです。だから私は人為と人工物は全て等価であると考えます。例えば芸術家は他の仕事をする人たちよりも高次の存在だなんて全く思っていません。芸術と非芸術という分け方もしません。ただ人為と人工物があるだけです

”美”が問題となるのは人為と人工物とその結果についてのみです。自然物にはあまねく美がありますから自然物においては美は問題になりません。この木の葉には美があるけども、違う種類の木の葉には美がないという事はないでしょう?しかし人間がつくったものであるなら・・・例えば粘土でつくった木の葉が、こちらのものには美があるけども、あちらには無い、という事は起こります

それと“品格”というものが問題になるのも、人為・人工物とその結果のみです。自然物にあるのは自然の摂理が持つ荘厳であって、品格ではありません。自然物は品格というものに収まらないのです

そういう“美”に体する姿勢は、誰かからの影響?

いいえ。素材に対する考え方と同じく、自然にそういう姿勢になっただけですよ。だいたい、色々な美学の本を読んでも哲学の本を読んでも、回答なんて殆ど無いじゃないですか。むしろ混乱を増やしているぐらいに私には思えます。私は、自然や素材と対面し、それを観察し、観察結果を形にするだけです。もちろん、技術的なことは参考資料を使いますよ。しかし何かしらの対象や素材をどう捉えるかという根本的なことは、他の誰かの考え方のレールに従うことは出来ませんでした。私はつくり手ですから、実際に実用的なもの以外は必要無いんです。むしろ自分の動きを鈍らせるようなものを増やさないで整理する方が多いですね。武器が煩雑では実戦で戦えないでしょう?

もし仮に完全で美しい理論があったとしても、それを人間が実行出来なければ、それは絵に描いた餅で使えないものです。だから私はそれが自分の手に合っているか、私にとって実用的かどうかを観ます・・・

なるほど、彼は実用的か、そうでないかという極めて日常的で当たり前な姿勢で物事を観ているわけなのかと私は新鮮に思った。しかし不思議と彼のそれは即物的な意味を全く持っていない・・・

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古今東西の色々な文化、あらゆる風土、思想、宗教的なもの、日常的な風景、新しい素材やメディア。それに対面した時に湧き上がる仁平自身の内面の感情の動き。

それら全てが彼の「素材」であり、かつ「燃料」となり、彼はただそれを形にする。

そこに「思想」も「スタイル」も必要無い。

そして彼自身の個性は「対象と関係する事により自然に、自動的に引き出される」。(彼の言い方だと“素材を開花させる者は開花させられる者である”となる)

結果、彼の個性は容量一杯に余す事なく使われ、かつ彼は自分の個性について常に無自覚でいられる。

彼はそれを「私は自分の個性から自由です」と説明する。

しかし彼の創作・制作姿勢は、私たちの(少なくとも私個人の)価値観からすると「無個性、無思想」で「即物的」に観える。実際に本人も言葉の上ではそう語る。私たちが知っている一般的に良しとされている論とまるで違い、その引用も無いため聴いていて不安になる。

それなのに、彼の作品と彼の言葉の内容には説得力があり、その論は作品で見事に実証されている。その論と作品は汎用性すら持っている。だからこそ彼は受け入れられ難いとも言える。誰だって今まで観た事の無いものに出会ってそれに説得力があるだけでなく実証もされていれば、その事実に戸惑うし、受け入れに慎重になるものだ。私も正直彼の話を聴いて戸惑ったひとりである。

人は今まで全く知らなかった無名の製薬メーカーの薬が良く効く事を眼の前で証明されたとしても、騙されているのではと心配になったり、良く効くゆえの副作用を妄想し心配になるものだから、仁平の作品や論を受け入れるのに躊躇するのが自然なのかも知れない。

・・・何にせよ、今までの私たちの価値観では「無思想・ノンスタイル・ブランド無し」の仁平と、仁平自身の作品の、極めて個性的で斬新であり多様でありながら全体の統一感を失わない、という事実との乖離を把握出来ない。

なぜなら、一般的には人は思想や哲学(加えてその家系や履歴)を持ち、それ自体に価値を与え、その範囲のなかで何かをつくり出すからだ。そしてそれを受け止める側もそういうものだとしている。それをその人の個性として認識するのだ。(もちろん、特別に優れた作家のものはそれを大きくはみ出す勢いと強さがあるが)

しかし、彼は“それは過去の知識と経験の編集物に過ぎず、そこに新鮮なものは何も無い”と言う。

私たちは(少なくとも私は)彼が言う通り「思想や知識という檻」から抜け出し、新しい眼をもって彼を、そして自分を取り巻くものを・・・彼の言う「素材」を観ることが必要なようだ。

彼の姿勢と作品はそれを教えてくれる。

(田中公平 筆 2024年加筆修正)


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