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制作における意図や作為のお話

良く、創作品などにおいて

「これは作為が観えてしまって良くない作品だ」

などと批判されることがありますが、

実は、表現者の意図がキチンと、それ自体が機能性を持ち、それが過不足なく受け手へ伝達されれば、それは摂理に一致し、そこには違和感はなく、そのような「作為が観えてイヤラシイ」ということは無いのです。

(精神的な作用も機能で、実用です)

非常にシンプルな話です。

一見それらしい空虚な気構えや精神の話ではないのです。

【制作者の作為がいやらしく観えるのは「それが機能していないから」あるいは「それが思想や理念に固定されてしまった時」】

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同じ性質の話題で

「作家の作品には遊び心が必要だ」

と良く言われますが、こう主張する人の作品には殆どのケースで

【実際には遊び心はなく「遊び心とされている歪んだ入れ物」があるだけで「遊びそのもの」はその中に入ってない】

ということが多いと私は思っています。

私はそういう文脈で使われる「遊び心」という言葉が大嫌いですし、そういう言葉を悦に入って言う人が苦手ですし、そういう人が作るものも苦手です。

で、上記の

【制作者の作為がいやらしく観えるのは「それが機能していないから」あるいは「それが思想や理念に固定されてしまった時」】

と同様、

「作家ものには遊び心が大切」などという、お題目が設定された瞬間に、真の遊び心は消えるわけです。

そういうモノは「イヤラシさ満載の得体の知れないもの」になるのです。

「遊び心が大切だと主張する人々が」「遊び心」とは全く正反対のものを産み出してしまうことになるのです。

それは

「遊び心という『言葉や価値観』が優位に立ち、作品そのものが自然に持つ”遊び心そのもの”は消えてしまう」

ということです。

そして「遊び心という名前を持つ理念の器」がそこに残ります。しかし、そこには「遊び」が中に入ってないのです。そして、その「異形の器」を遊び心と称しているのです。

本来の遊び心は、それ自体が”遊び”であって、自由であって、器には入っていないのです。

しかしその「空っぽの異形の器」は「作家の作品は遊び心が大切という理念の器という分かりやすい形」を持っているゆえに、人々に理解されやすい。

それは陳腐で、みすぼらしいながらも強固な容れ物です。そして中身の入っていない、その器そのものは中身の無いまま育ってしまうのです。それゆえ、厄介です。

「遊び心という言葉や理念は、遊び心そのものではありません」

今正に生きているものを定義することは出来ません。生きているのだから、いくらでも変化します、成長します。始まりがどこかも、終わりも分かりません。

総括して、定義出来るものは「終わったもの」です。

【遊び】というものは、常に新鮮な生きたものです。

「思想や理念」それは実は全て過去のものです。新鮮なものなどありません。新奇さはあっても、それは解釈の方法であって、それそのものは実際には古いのです。

なぜなら「遊び心という理念」はもとからある価値観に照準を合わせたものだからです。

しかし

「創作品が自然に持った天真爛漫さ」

それは過去のものではありません。

今、産まれたばかりのもので、新鮮で斬新で、かつ、懐かしいもので、それは時間が経っても変りません。

「それは過去と現代という分かれ目を消してしまう」からです。

「今、であり、過去、であるもの。」

常に新鮮に湧き続ける水。固定化することが出来ない、正にそれそのものです。

そのようなものが持つ魅力の一つに「遊び心的な」天真爛漫な自由があるのです。

決して、作者が悪い意味で受け手を意識した、イヤラシイ「余計な遊び心」ではないのです。

【作品における“遊び心”は、自由そのものであり、遊びそのものであり、その作品が自然に持つ天真爛漫さの事である】

と私は思っています。


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