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伝統工芸において明治以降の偉いとされている人ばかりを参考にしても伝統から学んだ事にならないですよね

私は、染の着物や帯の文様染色の製造卸販売をメインの生業にしております。ですので東京在住の私は東京国立博物館の常設展に良く行きます。工房構成員には年パスを配布します。工房を東博の隣にしたいぐらいに、それは身近であり、その収蔵物はある意味師匠であり、それを制作した人々に同志という感覚を持ちます。

しかし、私よりも年長の模様師たち(和装の文様を加工する職人)・・・いや同世代や年下の人たちもそうですが、模様師だけでなく和装制作系の全般、いや呉服業界全般か・・・大手美術団体系の展示会には行くけども、東京国立博物館や京都でも奈良でも博物館の常設展に行かない・・・とにかく彼らが「本当の伝統に日常的に触れようとしない事」に私は疑問を持っているのです。特別展などにはたまに行っても、常設展には行く人が殆どいない。制作者だけでなく、流通や販売の人たちもそういう大手美術団体の展示会ばかりに行きます・・・

これは、大正・昭和にかけて書・篆刻・料理・陶芸など幅広い分野で活躍した北大路魯山人存命の頃から変わっていないようで

〜皆さんは、帝展やその他の展覧会をご覧になって楽しまれているのでしょうが、私は博物館に行きます。そこには今は無い実に調子の高いものがあります〜

と、魯山人の随筆に書いてありました・・・私も全く同意見です。

例えば東京国立博物館には、縄文時代から始まり江戸時代までは今出来の作品には無い実に調子の高いものに溢れていますから、創作的に参考になるものが目白押しですし、創作に疲れた心身を浄化してくれ、次の創作の力も受け取れます。

が・・・明治時代の展示室になると当時起こった急激な時代の変化のせいなのか、調子の高さとしては別物ぐらいに急激に落ちます。雅味が無く、悪い意味の個人作品感があって実にいやらしい。特に、最近展示されている、大手工芸美術団体系の人間国宝ものなどは、東博の江戸からそれ以前の収蔵物からかなり悪く浮いています。ですので個人的には明治以降のものはそれ以前の収蔵物と別ものと考えています。しかし、そのようなものでも、まだ昔の息吹が多少は感じられますし、その当時日本ではまだ黎明期だった油彩の分野には未完成ながら心を打つ作品もあります。

問題なのはそれ以降の「今どきの伝統系のもの」です。その多くは大手美術団体展の過去の入選作品を模倣したようなもの→模倣されたものをさらに模倣したもの・・・そんな事を繰り返したものが多いように感じられます。それを続けていると、写真をコピー機で複写したものをまた複写してと繰り返すと画像が荒れて劣化するように、おかしなものしか出来上がらないのです。

しかし東博の収蔵物のような本来の「古典」「伝統」は違います。それは制作者の強い個性が伝統に同化した結果、強い個性と公共性とを同時に宿した文化的公共物です。それはその地域の文化圏に育った沢山の人々が飲む湧水のようなもので、その地域の人々にとっての資源と呼べるものです。

現代人はそれを使い料理する事を許可されているのです。料理に使ったその水は、その料理に溶け込んでいて、かつ味わいに決定的な影響を与えます。その結果、その料理は浮わついたものにならず、その料理を作った人の個性の輪郭も際立ちます。しかし近現代に作られた、伝統を見失った料理のような作品をコピーしたら、それは個人作品の模倣にしかなりません。

伝統の源泉に直接対峙し真摯に制作すれば、新しいものを生み出す基盤になり、そのまま模倣したとしても、それは尊敬を持った「写し」という日本に限らず、古今東西行われている創作行為になるのに・・・

私は今どきの公募展系のものは観に行きません。私にはあのようなものは「淀んだ沼の水」「近親婚が繰り返されて奇形化した産物」としか感じられないので避けます。

正確に言えば全く観ないわけではないけども、明治から現代のその手のものは「プロなら知っておく必要があるので把握はしておく」意味で情報を入れるだけで、創作的には学ぶものは無いと思っています。実際、私は個人的には創作的にも技術的にもその手のものは全く参考にした事がありません。例えば「丸紅コレクション」の着物の近代作家ものなども観てその当時の職人技術や価値観は把握しておきますが、それを創作的に参考にするわけではありません。

とはいえ、そのような美術団体系に所属している人の一部と、そのような団体とは関係の無い、作者が美術団体の価値観に固定されず直接社会と関わる「商品としての仕事」には良いものがあります。

例えば、池田重子氏の明治から昭和中頃ぐらいまでの和装コレクションを観ると、当時は呉服が沢山売れていてお客さまの見識が高く、呉服業界の流通全体が機能し呉服を扱う人たちのレベルが高く、沢山仕事があったからこそ育った腕の良い職人がいたのが見て取れます・・・制作、流通、顧客がしっかり組み合って生まれた商品には良品があります。

しかし厳しい事を言えば

「そういう世代の高度な着物や帯であっても、未来につなげる形で和装業界を盛り上げる事が出来なかったから今の惨状がある」

というのもまた事実です。

業界人は、そこを当事者として観るべきだと私は考えています。過去の検証が必要です。誰かを吊るし上げる意味ではなく「創作と創作以外の要因の全て」を観察し検証をするべき、という意味です。

どこかに明確な原因があったけども、皆でそれを見なかった事にしたのかも知れないし、単に業界のあらゆるシステムが時代について行けなくなったからなのかも知れないし、そもそも和装自体がもう文化的寿命が来ていて社会の人々から関心を持たれなくなったのかも知れない・・・色々な理由が考えられますが、どうも業界人に、当事者意識が薄いような気がしてなりません。

伝統系では、昔の盛況を懐かしむ人たちが何でもかんでも「外部的要因のせい」にしがちですが、そういう面があったとしても「当事者として」現状の凋落の責任の一端はあるのではないでしょうか?問題があるのなら当事者として自分自身が出来る事をし改善しようとするべきなのでしょうないでしょうか?

和装関係の制作系の後継者問題も、何もしていなかったから現状後継者がいないのですし・・・そういう視点無く昔は良かった良い仕事があった、その仕事を理解出来るお客さんがいた、今は仕事が分かる人が減った、最近の若者は堪え性が無いから後継者が育たない、などと文句を言っていても全く未来に繋がらないと思います。

私自身は、プロとして通用する弟子をひとりしか出せていません。これは本当に心苦しく思っています。もちろん、今後も自分なりの後継者育成をしていくつもりです(技法その他は、初心者にも分かりやすい形で常にウェブ上に公開しております)

話が少しズレました・・・

それは漁業の問題と似ています。昔は魚が沢山いたから、ただ沢山取る方法を考えて実行すれば良かった。しかし、環境の変化を読み取る事無く、ただそれを繰り返していたら魚が取れなくなってしまった。取れなくなってからも、整合性の無い外部要因のせいにして自らは何も変えないままでいる。益々事態は悪くなる。

・・・「どの時代でも、良い仕事は極々一部」です。過去の全てが良いわけではありません。色々な面で変化が必要です。良い仕事だったもので、今も変わらないからこそ価値のあるものもありますが、それでも本体は変えず提示方法を変えるなど、変化が必要な場合もあります。

未来のために現代の権威や、業界の慣習、そういうものを冷徹な眼で検証する必要があると思いますが、しかしそうすると「今まで通りで商売になっていた人たちの抵抗」が強く、そういう運動は起こりません。まだ旧来のシステムでやって行けるうちはギリギリまでそれで利益を得たい、一円でも他人のために使いたくない・・・そういう心理の人が伝統系、職人系の人に多いように思います。しかし文化の未来への種まきはある程度余裕のあるうちにしなければばならないのです。いよいよ危ないとなってからでは遅い。だから今から手を付けても遅いものも沢山あると思います。

今まで文化の未来への投資を出し渋り、結果として今の惨状があるのにまるで当事者意識が無く、他人のせいにばかりしている、それが今の日本社会・・・といえば、全くそうだとも言えます。

何にしても、そのような状態に陥った際の指標になるのが、その地域の本来の伝統なのではないでしょうか。

それを持つ民族は幸運で幸福だと思います。

あらゆる手を尽くして結果何も改善出来なかったのなら、その文化の界隈は文化的寿命であったという事ですからそれは逆に無理に存続させる事が不自然という事になります。

そうなったら、その時最も勢いのあるものを育てるように投資すれば良いのです。

伝統界隈のものだからと何でも保護するのは不自然です。


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