舞い降りて来るものを検証する
いわゆるインスピレーション、舞い降りて来るものは、含まれる内容とは無関係に、受け止めた時の感覚自体に、強い弱いがあります。
囁き声のような微弱電波に、豊かなものが入っていることがあるし、落雷のような衝撃を受けても、それはただの衝撃だけで中身が入っていないこともあります。
普通に、受け止めた時の感覚通り、微弱電波の中身には殆ど使えないような小さなものしか入っておらず、落雷のような衝撃の中身に、使い切れないほどの中身が入っていることもあります。
そのように、舞い降りて来るものを受信した時の感覚と、その中身の質や強さとは関係無いことが多いものです。
だから、受信した時にいわゆる感動というものが自分に起こっても、その中身が本当なのかどうかも検証する必要があります。
感動という感覚は、常に素晴らしいことの受信によって起こるというわけではなく、指を針で刺されたから痛い、という肉体の反応のような感情の反応が起こっただけ、という場合がありますから検証が必要なわけです。
なんにせよ、舞い降りる何かを、強く受信しても、微弱電波を拾っても、その圧縮データを解凍して検証するまでは、それが実際に使えるものかは分からないのです。
だから「微弱電波」を受信する鋭敏さを持っていることと、訪れるものを受け止めた時の感覚・感情に流されないことと、その中身の検証が必要で、もし使えるものが入ってた場合は、それを形にするための設計と、技術が必要です。
しかし、だからといって「過敏」であることは、あまり有効ではないと思います。
過敏というのは、例えるなら、皮膚が剥けて、肉が露出してしまった状態で、その状態での受信や制作ですから、一般に通じるものは出来ません。それは著しくバランスを失したものになります。
まあ、そういうものに全く需要が無い、ということはなく、同じく皮膚が剥けてしまっている人になら逆に「正にこれ!」となる可能性はありますが。。。
割と確実にしっかりしたものを手にできるのは、創作的な対話の中からの発見をその場でメモしたり、その他記録に残したもの。
他人との創作的な会話はとても有効ですね。
自分が発信したものを、相手を通して観ることが出来るし、相手がそれを受け止めた反応も観られるので、いろいろなことが具体的になって増幅されます。
。。。そんな感じで私は「訪れるもの」を取扱います。
「外から、あるいは、内側から”訪れたもの”を自分なりに形にする」という感じで、私は制作します。(自分が手がけるもの全てにおいて)
今まで自分の中に培ったものを表現する、という方法だと、しばらく制作しただけでアッという間に、その埋蔵品は枯渇してしまいますし、そういう表現物は、悪い意味のワンパターンで、独りよがりのものが多いように思います。