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文化を過保護にしてはいけないと思う

キモノの伝統ってどこからどこまでなんですかね。と良く思います。

日本の観光地での、キモノの貸衣装で、外国人や日本人の若い人たちに、振り袖に半幅帯を締めるのは酷い、振り袖は未婚女性の第一礼装なのだから、云々でSNSで話題になっていました。(元々キモノはSNS系では「炎上素材」として有名ですしね、笑)

しかし、日本の長い歴史で言えば、現在のキモノの正当な着方とされているものも、割と最近の着方だったりします。礼装ですら。

外国人から観て日本的な風景がある観光地で、特に外国人が着るのなら「日本のゴージャスなドレス」という感じで、着たいと思い、それをシンプルに喜んで着る。私はそれの何が悪いのか?と思うのです。それと、キモノを殆ど知らない若い人にとっても、それは異文化の衣装と同じようなものです。

日本人がどこかの正式な場で礼装として着るのではなく、ただの観光でのコスプレに、正式云々ということを要求するのはちょっと違うんじゃないかなあ?と思うわけです。

それじゃ、例えば日本人がどこかの国に観光に行き、その地の煩雑極まりない民族衣装の正装を、その民族の文化の決まり通りに、完全に着たいと思うのか?(民族衣装というものは、だいたいが、どの地でも煩雑な形式を持っています)

思いませんよね。その地の固有の伝統文化が持つ雰囲気だけで充分楽しいんです。

そういうユルさって伝統文化の力が持つ余裕だと思います。

ちなみに、キモノの制作の方でも例えば友禅など「今言う”正統派”友禅って江戸時代の”ガチの本物”の方法と全然違う」わけで、それでも”古来からの正当な伝統”と主張していたり。

上に書いたように、着付けもそうですよね。昔と今では全然違う。

そういうものなんです。

だから、変に目くじら立てても仕方がない。

文化風習は、時代によって激変するのが自然。

固定している方が実はおかしい。

で、私はいつも思うのですが、そういう実は根拠があいまいな、あやふやな伝統云々を意固地に主張するのって「新しいクリエイティブに確信が無いから」だと思うのです。

昔のものよりも、ずっとステキで文化的に高度なものを、現代人である自分たちが産み出しているという実感と実証があれば「本来はこうだ」とか「伝統はこうだ」とか主張しないんじゃないですかね、と思うのです。

それに、今伝統とされているものが産まれた時は、殆どのものが正に新しいものが産まれた、ということだったんですよ。今良いものが後世に残る伝統となる。だから、ある意味、

伝統とは”時間を超えて生き残る特殊な個体の連鎖”

なんですよね。

が、そういう時間を超えるような”特殊な個体”が産まれる確率は低いから、いろいろな考え、感性、形のものがどんどん出て来るべきなんです。

だから、何か文化的に新しいことが産まれることを否定してはいけない。

なぜなら、その殆どが消えて、生き残るものは、ほんのほんの僅かだからです。

そして残ったものが、昔の良いものとちゃんと繋がるのです。

例えば、保守系キモノ好きの方が蛇蝎のように嫌う(笑)オラオラ系浴衣でも、100年前ぐらいからの作り方の浴衣でも、並行して存在するのが自然です。

元々日本の文化は、いろいろなものが並列して存在して機能している、そういうものだったんですよね。

元々いろいろなものが雑多としてあるのが日本の日常で、伝承されているものは、雑多としたものが編集されているから、元々単一のもののようなイメージがあるだけに過ぎません。

それと「伝統に利益誘導のための権威を持たせる」ことによって「伝統の形式は一つ」みたいな勘違いが撒き散らされているわけです。「これが認定された本物、これ以外はニセモノ」という具合に。実はたいして根拠は無いのに。

(文化のある程度の保存のための認定や、保護の否定ではありません)

(例えば、イタリアワインが古典的なワインの製造法を保護しようと認定制度を制定した際、一つの製法を認定すると、他の伝統的製法が否定されてしまう、という矛盾に悩んだそうです)

日本の文化は元々バリエーション豊かだったんですよ。今もそうですから。そこは全く変わっていません。

どうしてキモノの世界だけ「純水のようでなければならないと主張されるのか?」と思います。どうして単調でなければならないのでしょう?

ちょっと濁っただけでその水は腐ってしまうのですかね?
だったら、その水は実はもう腐っているのです。

それに、もし、悪貨に駆逐されるなら、その伝統なるものは、もう寿命で消えるべきもの、ということなんです。

「文化にも、寿命があります」

過去の文化も、流行って消えたものが沢山あるのです。失伝してしまったものも沢山あります。消えてしまったものの方がずっとずっと多いのです。

しかし何かしらの文化や風習に「伝統っぽさ」が付くと、不思議と「その形式の文化は永遠に不変のまま続くもの」と勘違いされるのです。

博物館にある「モノ」はただのモノです。伝統文化はそのモノに低通する無形のものです。

博物館にあるモノたちは素晴らしいものですが、しかしそこに低通する「伝統」「その地域固有の伝承文化」を機能させるのは、現代人の精神なのです。

それがなければ、博物館は「ただの遺物館」に過ぎません。

文化を過保護にしてはいけないのです。

むしろ叩き鍛えるべきものなのです。

保護されたらその文化の真髄はもう死んでいるのです。

また、伝統を引き継ぐなら、自分が伝統に育ててもらったように、自分自身が当事者として、新しい若いものを育てる義務もあるのです。

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