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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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#染物

手作りという魔法は無い

私は、現代において「手で作る必然のあるもの」によって「いわゆる手工芸品」では到達出来ない創作性を「現出」させ、美をたたえているものを作りたいと思っています。 昔から、最上品はそうでした。 それは手作りだから良いとかそういうことは関係なく、良いのです。 昔の工芸品の素晴らしいものを、天然素材だから、手作りだから、苦労して作ったから、技術が素晴らしいからとか、そういう面で感動する人はいないと思います。 それは理由なく人々の心を打つものだから、飽きられることもなく長年ずっと

月が好きです

私の制作する作品には、割と頻繁に月が出てきます。 私の月への嗜好は、中学生の頃からです。 当時、多いに影響を受けた「ピンククラウド」というバンドが、曲や、バンドに関するデザインに良く月を使っていたので、単純にそれに影響されて何かをつくる際に月をからめるようになりました。 その後、私は日本文化に根ざした創作を仕事にするようになり、自分自身の日本の創作物の研究の結果「日本の創作物は太陽よりも月をベースに出来上がっている」という考えを持つようになりました。 お天道様に対する

伝統工芸の専門家といっても分からないことは分からないもので

伝統工芸系といっても、分野が違うと「全然分からない」ということは多いものです。 当然私も工芸系の他分野のことの詳細は分かりません。例えば漆を例にしても、同じ伝統工芸系でも染色とは「全く別」なので、ザックリしか分からず具体的なことは体感的には分かりません。 専門家がつくった漆の蒔絵技法のパネルを見たとして、その解説文の専門用語に、さらに簡単な解説までついていても「そういう方法なんだな」とは思いますが、体感的なイメージまでは出来上がりません。 これは「同業の分野違い」でも同

汎用性のあるものは強い個性を持っている

私の制作する着物や帯、その他染色品は、一見、個性的で使いにくい、他のものと合わせにくいのではないか?と思われることが多いようです。 なので「気になるけども、購入に踏み出せない」という方もいらっしゃいます。 しかし、ユーザになられた方々の多くは「これほど汎用性のある着物や帯は無い」とおっしゃって下さいます。 「個性的だけども、いろいろなものと合わせて引き立て合うもの」 というのは一見矛盾することですが、実際には「それが当たり前」なのです。 着物や帯は、基本的にそれ単体

工房で制作する染色品の色彩について

フォリア(当工房)で制作している染色品の色味は、非常に渋い色調から、草木染のようなナチュラル系の色調、西洋系ハイファッション系の色から、ケミカルな色まで幅広く使いこなしますので、業界の詳しい方々は「色に困るとフォリアへ」ということでご注文をいただくことが多いです。(他所では断られるような変わった素材なども良くご相談いただきます) 染料も、化学染料、天然染料どちらも使いますし、顔料や墨も使います。 フォリアでは、いろいろな色を使いますが、私が常に気をつけていることは「その色

絶対的に正しい色は存在しない

何かを制作するにあたって、そこに使う色はあらゆる選択肢がありますが、私は色というのは、最終的には「コミュニケーションの手段である」と思っています。 色は、その場の光によってまるで違うように見えます。 青が緑になってしまうぐらいに、光で変わります。 それと「眼の個体差」の問題も大きなものです。 人の眼は、それぞれの特性を持っていて、同じ色を同時に見ていても同じように色が見えていないのです。意外なほど個体差があります。 色に関わる仕事をしていると「いかに人によって眼その

プロの仕事に偶然などないですよ

上の写真の布は、イラクサの布に、ロウを使った染色技法で独特のニュアンスを出したものです。 生成りの部分は、何も染めていない布のままで、金茶色のところは、ロウによって文様を染めた部分です。 まるで、硬い樹皮のような味わいが出ていますが、もちろん布ですから柔らかいです。 この仕事では、あえて何も染めていない布の部分を残し、染めることによって、まるで硬い樹皮のような味わいの部分と同時に観ていただくことによって「布の魅力の振り幅を味わっていただく」のを意図しました。布の染まって

本当に自由なら必要な抑制が働くもの

ウチでは文様染の、例えば友禅の仕事などの場合、配色にあたって「むやみに色数を増やさないこと」と意識して仕事をします。(3〜7色が多いです。しかし結果としては多色使いに見えるそうです) 文様染の昔の名品や、名画の多くはむしろ色数が少ないものが多いです。もちろん、昔は現代のように沢山の「色」を簡単に得ることが出来なかったという理由も大きいですが、現代の眼で観るとそれは正解だったように思います。 人間の注意力はそれほど広くあるわけではなく、一度に沢山の色や形を判別出来ないのです

手作りでなければ出来ないことをやらないと

手仕事の染めと、機械の染めと、違いはいろいろありますが、 「意外なことに、手仕事の上手い仕事は、良く出来た機械製品に似る」 という事実があります。 例えば文様染の「精緻な手作り品」は、現代の良いプリントに、仕上げで少し手仕事によるブレをつくるだけで、見た目はほぼ「精緻な手作り品」と同じものが出来たりするのが、私たちのような手仕事屋には怖いのです。 手仕事には、不思議なところがあって「技術的に精緻なことを安定して出来るようになると、高度になるほど機械がやったみたいに平板

少し崩れた時に最も美しくなるようなものを好みます

流行もありますが、個人的には、和装はフォーマルであろうと、カジュアルであろうと 「少し崩れた時に、最も魅力、色気が漂うもの」 が最上、としております。 この「少し崩れた」というのは、わざと崩したものではなく、自然に起こる崩れのことです。 例えば着付けやヘアスタイルが、自然に崩れて来たり、着ている人が少し疲れた雰囲気を持った時、あるいは緊張が解けた時、など。 「少し緩んだ時」とも言えますね。 私は和装の布をつくりますので 「キチンとしている時はもちろん良いけども、

古典の資料から文様を起こす時に気をつけること

古典の資料を使って文様を起こす場合、現代的な視点を古典文様のどこにフォーカスしてその古典文様の魅力の本質を汲み取り形にするか、ということが大切だと思います。 そこに気をつけないと、形式だけ似ている(しかもその形式も同じというわけではない)ヘンにこじんまりとした「間違ってはいないけども面白くもない仕事」になります。 それは「似て非なるもの」亜種のようなものになってしまいます。 古典の現物は良い意味でガサツであったり、良い意味で異様に細かい部分があり、素材や加工のメリハリが

作品の自由さ

良く自由に制作するとか言われますが、基本的に作品は、自らの意図や姿勢や考えからさえ、自由であるべきだと私は思います。 自らの意図、姿勢、考えの表明が作品制作の主眼であるなら、それは取り扱い説明書のようなもので、そこには新鮮さはなく、創作性もなく、ただの自己確認のためと、閉じた精神を持つ個人の感受性の吐露しかないと思うのです。 それは全て過去に軸足を置いた、例えるならずっと水の入れ替わらない沼のようなものです・・・それが思想と呼ぶのであれば、私には思想はありませんし、そ

摂理と意図

何か、世の中では「芸術は人為的な激しいもの、バランスが崩れたもの、特異なもの、異常なもの」という偏見があるような気がします。 しかし現実には「完全な摂理」ほど過激なものはありません。 自然物の存在、成り立ち、自然現象は例外なく人間の想像、創作を遥かに超えてしまうのですから。 逆に言えば人間のしていることは、その摂理に参加させてもらいながら、人間の生命の雑音を産み出すことなのかも知れません。 「生命の雑音」は魅力的で色褪せることは無いので良いのですが、私は「思想」「文脈

舞い降りて来るものを検証する

いわゆるインスピレーション、舞い降りて来るものは、含まれる内容とは無関係に、受け止めた時の感覚自体に、強い弱いがあります。 囁き声のような微弱電波に、豊かなものが入っていることがあるし、落雷のような衝撃を受けても、それはただの衝撃だけで中身が入っていないこともあります。 普通に、受け止めた時の感覚通り、微弱電波の中身には殆ど使えないような小さなものしか入っておらず、落雷のような衝撃の中身に、使い切れないほどの中身が入っていることもあります。 そのように、舞い降りて来るも