作品の自由さ
良く自由に制作するとか言われますが、基本的に作品は、自らの意図や姿勢や考えからさえ、自由であるべきだと私は思います。
自らの意図、姿勢、考えの表明が作品制作の主眼であるなら、それは取り扱い説明書のようなもので、そこには新鮮さはなく、創作性もなく、ただの自己確認のためと、閉じた精神を持つ個人の感受性の吐露しかないと思うのです。
それは全て過去に軸足を置いた、例えるならずっと水の入れ替わらない沼のようなものです・・・それが思想と呼ぶのであれば、私には思想はありませんし、そういうものに全く興味がありません。
良い作品は、制作した本人にさえ新しいものであり、出所がどこか分らないものです。
そしてもし、そのようなものをつくれたら、それこそ正にそれはその人にしかつくりえなかったものです。
それは思いつきでつくるとか、行き当たりばったりで行うことではありません。
そもそも、思いつきや行き当たりばったりで制作するというのは、自由さを阻害することになるのです。それはただの過去の手癖によって出来上がったものに過ぎません。
人間が何かをするということは、必ず何かの助けを借りて表現し、そして同時にそれに制約を受けるのは必定だからです。だれもその構造から逃れることは出来ないのです。
だからこそ、過去を超えるために今、目の前にある「対象」「素材」「摂理」を理解する必要があります。
自分をとりまく環境や素材や自分自身の精神が持つ「摂理」に乗って自分自身から引き出されるものを形にする。その事実の積み重ねが、その人の自然な個性を形作り、時に傍目にはそれが思想や哲学に感じられるかも知れません。。。
対象を開花させることは同時に自分自身が対象に開花させられているという事実がそこにはあります。そこに、制作する自分自身ですら知らない新しい自分が表れるのです。
それと「純粋に自主的に制作したものはアートで、注文で制作したものはアートではない」ということが良く言われますが、全くバカらしいことです。
例えば注文の仕事だから自由ではない、ということもありません。時に他者からの注文は、硬直した自分の精神に新しい空気をもたらしてくれます。
注文の仕事であろうと、自分自身に舞い降りたインスピレーションから制作する作品であろうと、それは何かしらを制作する「起点」に過ぎないのです。それは外からの刺激か、内からの刺激かの違いに過ぎません。
「ようは制作する側の精神の持ち方の問題」ではないでしょうか?
どんな仕事も、人間である限り、他人の意図や自分の古い思考的因習や、物理的要素の拘束は受けます。それが問題ではないのです。
制作者は、対象との真摯な関係によって「自分自身も開かされてしまう」わけです。そこには思想や意図を超えた、新鮮なものが舞い降ります。
そのような姿勢での行為は、自主的な創作であろうが、注文制作であろうが、関係が無いのです。
自由とは◯◯からの自由というものではなく「自由であること」ですから・・・。