
老い、食、家族をめぐる思い。 吉本隆明「開店休業」
最近通勤電車で読んでいたのは、吉本隆明「開店休業」。

元々の吉本さんのdanchuの連載の部分も味わい深いのだけれど、長女のハルノ宵子さんの追想文とイラストがあるからこそ、「なるほど、そうだったのか」の発見や理解も深まり、読み進めるのが楽しかった。
連載時にはすでに高齢だった吉本さんの記憶は、ハルノさんの追想文で「おお、そうか」と正解がわかり、それが老化ゆえと感じることも多々あるので、我が親を振り返り、切なくなったりもする。
著者は吉本さんではあるのだけれど、どうしても自分の興味は長女のハルノさんの方に行ってしまう。
普通なら腹立たしくなるようなことも、「この親はこういうひとだから」と受け入れて、お世話をすること。
しかもそれが長期間にわたり、色々な意味で難しい両親双方の異なる希望を叶えて、自分の時間を掠め取る(というか、掠め取られる?)ように生きるのが当たり前になったハルノさんが淡々と当時を振り返って書く文章は、余計な力みもなくて小気味がいい。
だからこそ、「氷の入った水」に書かれている、この本をめぐる文章が心に沁みる。
「私は仕事に関しては、おおむねなまけ者だが、これまでの人生で二度ばかり、自分から「書(描)かせてください!」と言ったことがある。どちらの場合も、後々から考えると大きな意味があった。
(中略)
その時点では想像すらしなかったが、私は父と同じ年の十月に母も亡くした。両親の介護を生活の中心に据えていたつもりが、一転たった一年の内に、すべての生きる“よすが“を失ったしまったのだ。
“食“を巡る物語は、そのまま“家族“の物語だ。ヒマさえあれば、ぶらぶら歩きの好きな私だが、このエッセイを書いている間は、出掛けていても「ああ、またあの頃の家族に会いに帰ろう!」と、そそくさと家に戻り、引きこもっていた。しかも“書く“という行為には、少なからず客観性が必要だ。客観的に家族を見直すことは、私にとって最高の“認知療法“となった。おかげ様で精神のバランスを保てたのだと思っている。」
書くことで、その時の記憶が(忘れていたことを含めて)鮮やかに立つ上がることは、わたしも経験している。
ハルノさんが家族の思い出を抱きしめるように書いたからこそ、この本の追想文が生き生きと温かかったのかもしれない。
「開店休業」というタイトルを巡るdanchu編集長の江部拓弥さんの文章、平松洋子さんの文庫版解説も素晴らしかった。
平松さんの解説でハルノさんの文章の魅力に改めて気付かされたし、(多分)まだ読んだことがなかった平松さんの本も読みたくなった。
ハルノさんの文庫版のあとがきもあり、本当に文庫版で読んで良かった。
「隆明だもの」「猫だましい」とハルノさんの本を読んできたが、まだまだ読みたくてたまらない。

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