【読書記録】富国と強兵-地政経済学序説:貨幣と国家篇
今回の読書記録は、中野剛志『富国と強兵 地政経済学序説』の貨幣と国家編です。
前回の読書記録である導入編では、以下の三点が明らかになりました。それは、
近年の諸外国の対外的な行動(ex.中国の経済大国化に伴う軍事力強化と頻発する領海侵犯、ロシアによるクリミアの強引な併合、アメリカによる冷戦後のユーラシア大陸統治やショック・ドクトリン)が、地政学的なだけではなく、それらを実現するための経済的戦略のもとに行われていること
日本はまさに中国、ロシア、アメリカ等との関係における当事者であり、また、世界情勢はリアルタイムで変化し続けていること(ex.2021年夏時点で、アフガニスタンにおいてイスラム武装勢力タリバンが宮殿を掌握、アメリカは同国から完全撤退を決めたことで、アフガニスタンそのものの今後とともに、中東における政治的、宗教・思想的、経済的秩序のあり方の変化に注目が集まっている)
その為、従来の地政学的視点だけではなく、経済学的視点(ex.現時点の国内で優先的に成長させるべき産業は何か?どのような経済的連携を諸外国と結んでいくべきか?その上で、どのような経済政策を取っていくべきか?)を織り込んだ地政経済学と呼べるような思考様式が必要になること
以上の三点です。
しかし、特に経済学の分野においては、狭隘な専門主義が進行しており、『21世紀の資本』の著者であるトマ・ピケティが以下のように嘆くような状態です。
さらに、主流派経済学は2008年の世界金融危機を予想し、回避させることができませんでした。というのも、主流派経済学の理論モデルでは、世界金融危機のような状況は起きえないと想定されていたためです。つまり、主流派経済学は経済自体すらも理解できていなかったと言えるでしょう。
このような前提から、今回の読書記録国家と貨幣編では、経済の最も基本的な制度である貨幣について探求を進めていきたいと思います。
「貨幣」とは何か?負債の一種とみなす信用貨幣論
そもそも、「貨幣」とは何でしょうか?関連する用語も含めて広辞苑を引いてみると、以下のような定義となっているようです。
貨幣とは何か?と私たちが尋ねられた時に思いつくのは、おおよそこのようなものかもしれません。
元々は物々交換で営まれていた経済が、それと等価なモノを媒介して行われるようになり、やがて金銀性の鋳貨が現れた、というイメージです。
では、その本質とは何でしょうか?
経済学の教科書的な解説では、広辞苑の定義にもあるように、貨幣には交換手段、計算単位、価値貯蔵の三つの役割があるとされますが、それはあくまで機能であり、本質を捉えたものとは言えません。
では、改めて貨幣とは何でしょうか?
この問題については諸説あるものの、本書においてはイングランド銀行の解説「現代経済における貨幣:入門」を引くことから始めています。
このように貨幣を負債の一種とみなす貨幣観を「信用貨幣論」と呼びます。イングランド銀行は、信用貨幣論に基づいて貨幣を理解している、ということでもあります。
では、貨幣が負債である、とはどういうことでしょうか?
このように、同時点の物々交換の想定と異なり、財・サーヴィスの移転と決済の間には、時間差が生じるのが一般的なため、財・サーヴィスの「売り手」と「買い手」の間に、「信用/負債」関係が発生することになります。そして、この取引における「信用/負債」関係は、負債が支払われることで解消されます。
以上のような流れを基に、中野は通常「売買」として理解されている行為とは、本質的に「信用取引」と言うべきと結論しています。
また、実際の経済においては、財・サーヴィスの取引は、多くの主体によって行われ、無数の「信用/負債」関係が存在します。さらに、ある時には「売り手」であっても、またある時には「買い手」となることもあり、「信用/負債」関係は複雑に絡み合っている状態です。そうなった時、AさんとBさんの間で定義された負債が、また別のCさんとの関係で受け取ってもらえるとは限りません。
そこで、異なる「信用/負債」関係の間で定義された「負債」を比較し、決済するためには、「負債」を計算する共通の単位が必要になります。この「負債」の共通の表示単位(ex.円、ドル、ポンド)こそが、貨幣と呼ばれるものです。つまり、貨幣とは円やドルといった共通の計算単位で表示された「負債」のことなのです。
もっとも、あらゆる負債が貨幣であるというわけではありません。貨幣が負債であるならば誰もが貨幣を貨幣を創造する事はできますが、「問題は、その貨幣を受け入れさせることにある」とハイマン・ミンスキーは言います。
負債とは、現在と将来という異なる時点間での取引によって生じるものですが、将来は不確実であることから、負債はデフォルト(債務不履行)の可能性を伴います。それゆえ、負債のうち、デフォルトの可能性がほとんどないものだと信頼して受け入れられるものだけが、交換手段としての役割を果たすことができるのです。
今日、多くの国で「貨幣」として流通しているものは、「現金通貨(中央銀行券と鋳貨)」と「銀行預金」とされています。銀行預金は手元にあるお金というわけではなく通帳に記帳された数字ですが、事実上貨幣として機能しているため、現金通貨と合わせて「広義の貨幣」とされています。
山口薫らによれば、2018年時点での日本国内におけるお金の総額1425.7兆円のうち、現金は112.4兆円。わずか7.8%ほどに過ぎません。
私たちはなぜ、不換紙幣に価値を認めているのか?
ここで、銀行と貨幣の関係について、本文中の記述を引きながらまとめてみましょう。
このように銀行預金は、現金通貨との交換が保証され、価値が裏付けられています。では、現金通貨は、なにゆえその価値を信頼され、取引の手段として受け入れられているのでしょうか?
かつての通貨は、国家が金などの貴金属との交換を保証している「兌換貨幣」でしたが、現代の通貨は貴金属との交換を約束しない「不換貨幣」です。
では、なぜ人々は不換貨幣を受け入れているのでしょうか?
この『The State Theory of Money(貨幣国定説)』が示した表券主義は当初、主流派経済学の陰で過小評価、あるいは誤解されてきました。しかし、マックス・ウェーバー、ジョン・メイナード・ケインズ、ケインズの経済思想を継承する「ポスト・ケインズ派」の多くの論者のほか、貨幣の起源や変遷、形態について研究する歴史家、社会学者、社会人類学者の多くによって、表券主義は支持されています。
また、不換貨幣の出現により金属主義を見直さざるを得なくなったため、主流派経済学においても表券主義が支持されるようになったと、中野は説明しています。
不換紙幣が貨幣として通用する理由について、イングランド銀行の解説は次のように述べています。
さらに、L・ランダル・レイは、同じく表券主義に立脚しながら、国家が貨幣を租税の支払い手段として定めている点が決定的に重要であるという説を唱えています。レイの議論を、中野は以下のように要約しています。
信用貨幣論に立ち、国民は納税(税を貨幣で納めさせる=貨幣の価値を国が人々に受け入れさせる)によって国家に強制的に課された「負債」を解消する。
このように、レイは、貨幣とは負債であるという「信用貨幣論」と、貨幣の価値の源泉は国家であるという「表券主義」を結合させたのです。
このような貨幣論を「国定信用貨幣論(Credit and State Theories of Money)」(英文:レイ、日本語訳:中野)と呼ぶことにしましょう。
貨幣の歴史が裏づける、『国定信用貨幣論』
続いて、貨幣について歴史的な観点からも見てみましょう。
板谷敏彦は、紀元前18世紀のハンムラビ法典内のビールにまつわる記述を引き合いに出し、以下のような例を紹介してくれています。
また、同じく信用取引についても、以下のような例を板谷は紹介してくれています。
『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』がベストセラーとなったヤニス・バルファキスもまた、メソポタミアの農民が共有倉庫に穀物を預けていたエピソードを紹介しています。
この他にも、歴史は金属主義を反証する事例を数多く示しています。
既に鋳貨を導入していた時代の国々について、中野は以下のように述べています。
このように、理論的にも歴史的にも主流派経済学が想定する金属主義は棄却され、信用貨幣論と表券主義が支持されることとなります。
厳密にいえば、表券主義と信用貨幣論は同じではありません。しかし、理論的に検討するならば、信用貨幣論もまた、国家と深く関係していることがわかります。
信用貨幣論とは、前述したように貨幣とは負債の一種であるとみなす貨幣観です。では、「信用/負債」関係が円滑に形成され、履行されるように安定させるシステムとは何でしょうか?
表券主義の理論書「貨幣国定説」を記したクナップは、貨幣の定義を次のように述べて、信用貨幣論に基づいた表券主義を表明しました。
つまり、特定の表券を負債の支払いの手段として定めるのは法律であり、その法律を守らせるのが国家です。こうして、負債の支払い手段、すなわち信用貨幣は、円滑に営まれるために法律、そして国家を必要とします。ここで必要とされている国家の機能は、民間の取引における負債の支払いを保証する「司法」です。
これについては、バルファキスもメソポタミアの貨幣(貝殻)のエピソードをもとに、端的に次のように述べています。
また、クナップの「貨幣国定説」においては、国家の「司法」機能だけではなく「財政」機能も信用貨幣にとって重要な意味を有します。すなわち、国家が租税の支払い手段として定めることが、貨幣にとって重要であるとクナップは論じているのです。
そして、国家が受領するものとして特に大きな役割を果たすのが租税だとクナップは続けます。
こうしてみると、クナップの表券主義とは、信用貨幣論を前提とし、また、近年ではランダル・レイが提唱した「国定信用貨幣論」と呼べるものでありました。
このクナップの議論に依拠するならば、信用貨幣論は、ほぼ論理必然的に国家の機能を強く要請することとなります。
以上を踏まえ、中野は以下のように貨幣と国家の関係について結論します。
銀行と貨幣:貨幣供給における通俗的な誤解
貨幣とは何か?という問いから始まったこの記録の最後に、銀行と貨幣、負債と不確実性についての探究を進めていきましょう。
イングランド銀行の季刊誌は、「現代経済における貨幣:入門」に続いて、「現代経済における貨幣の創造」という解説を掲載し、その中で、貨幣供給についての通俗的な誤解を二つ指摘しています。
一つは、銀行は、民間主体が貯蓄するために設けた銀行預金を原資として、貸し出しを行っているという見方です。しかし、この見方は銀行が行っている融資活動の実態に合っていません。その逆に、貸し出しによって預金という貨幣が創出されるのです。
たとえば銀行が借り手のA社の預金口座に1000万円を振り込むのは、預金を元手に行っているのではなく、単にA社の預金口座に1000万円と記帳するのみです。つまり、銀行は何もないところから、新たに1000万円という預金通貨をつくりだしているのです。
貨幣供給についての通俗的な誤解のもう一つは、中央銀行がベースマネー(現金通貨と準備預金の合計)の量を操作し、経済における融資や預金の量を決定しているというものです。
この見方によれば、中央銀行のベースマネーの供給がある銀行の本源的な預金となり、それが貸し出されることによって、銀行システム全体で乗数倍の貸出し・預金を形成することになります。しかし、既に見てきたように、銀行はベースマネーを貸出すわけではありません。したがって、銀行による貸出しは、ベースマネーの量に制約されていません。
銀行が貸出しを増やせば、それに応じた準備預金を増やさなければならないため、準備調達の価格(すなわち金利)を調節すれば、銀行の融資活動に影響を及ぼし、貨幣供給を調整することができます。それゆえ、今日の中央銀行は伝統的に、ベースマネーの量ではなく、金利操作を金融政策の主たる政策目標としてきたのです。
このイングランド銀行が解説するような貨幣供給の考え方-信用貨幣論を前提とし、需要に応じて貨幣が供給されるとする理論-は、「内生的貨幣供給理論」と呼ばれています。貨幣が民間取引の中から発生するから「内生」と称するわけです。他方、主流派経済学および通俗的に流布しているような、貨幣を所与のものと想定する貨幣供給論を「外生的貨幣供給理論」と呼びます。
なお、「国定信用貨幣論」は貨幣供給の内生性を基礎としつつも、国家という外生性を導入して補完したものと言えるでしょう。
不確実性が存在しない、主流派経済学の経済理論
以上のように、信用貨幣論を採用せず、金属主義、商品貨幣論を掲げる主流派経済学は、どのような経済理論を築き上げたでしょうか?
金属主義の考え方に則れば、金属貨幣は「商品(commodity)」の一種とみなされます。したがって、主流派経済学は貨幣経済を物々交換経済と同様に考え、現実に存在する「信用/負債」関係で生じる貨幣が存在しないということになります。
金属主義に基づいた貨幣観を持ったアダム・スミスは、市場は見えざる手(invisible hand)によって調整されると説き、ジャン・バティスト・セイは、「生産物は常に生産物と交換される」「供給はそれ自らの需要を生み出す」という「セイの法則」を誕生させました。このセイの法則が成立する場合、需要と供給は常に均衡し、不況や失業も存在しないこととなります。
さらに、この「セイの法則」を引き継ぎ、レオン・ワルラスは、経済全体の市場の需給が均衡するという「一般均衡理論」の体系を確立し、いわゆる新古典派経済学を主流派に押し上げる貢献をしたとされています。ただし、ワルラスは「一般均衡理論」を構築するにあたり、消費者と生産者の取引の量とタイミングはすべて正確に知られているという仮定を導入していました。取引において一切の不確実性がないものとしたのです。言い換えれば、市場の一般均衡が実現するのは、デフォルト(債務不履行)という事態は起き得ない世界においてなのです。
しかし、売買とは現在と将来という異時点間で行われる取引であり、そこで「負債」が生じます。また、将来は不確実であるためデフォルトの可能性が存在します。そして、デフォルトの可能性がほとんどないものとして、すべての経済主体が信頼して受け入れられる特殊な負債こそが「貨幣」です。「貨幣」とは、イングランド銀行の解説によって言い換えれば「信頼の欠如という問題を解決する社会制度」なのです。
また、人々は将来に何が起こるかわからないという「不確実性」に備えて貨幣を貯蔵するわけですが、「不確実性」が存在しないのであれば、貨幣を貯蓄しなければならない理由がなくなります。貨幣の機能の一つに価値貯蔵機能があることはどの教科書にも書いていますが、不確実性を想定しない主流派経済学では、貨幣がなぜ価値貯蔵手段になるのか説明することができません。
2008年の世界金融危機を主流派経済学者たちが予見できなかったのは、むしろ当然のことと言えるでしょう。
以上を踏まえると、私たちが必要とするのは、主流派経済学を破棄し、現実に即した貨幣観に基づいた経済理論を手に入れることです。中野は、そのような理論の構築を目指したのがケインズであり、そして彼の継承者であるポスト・ケインズ派であると言います。
to be continued……
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