週末は竹を背負う
本当に、誰かが見ているのではないかと思う。
動こうとしているとき、または逆に停滞しているとき。
助けを必要としているとき、何かをしたいと思っているとき。
必ずと言っていいほど、背中を押してくれたり、その時に必要な気付きをくれたり、助けてくれたり、ほっとあったかくしてくれたり、繋がってくれる人が現れる。私が欲しいと思う言葉をくれる人に出会う。
不思議なことだ。不思議だけれど本当のことだ。
竹籠を作るのに必要な竹が乾いて使えなくなってしまい、時期的には旬を外すのでどうだろうかと思いながら竹屋さんに追加で購入できるかどうかの連絡をしてみた。
そうしたら、「ちょうど遊布野さんの籠にちょうどいいサイズの、大きめの竹が今たくさんあるよ。ナイスタイミング。」とのこと。
この梅雨時に。嘘みたい。さっそく、週末に受け取りに行くと返事をした。
別の、竹を使う工芸品の職人さんからは、「竹が必要ならうちにもあるから、空いてる時間にいつでも取りにおいでよ。」と連絡が来た。
ちょっと仕事でへました直後だったので、別の意味でも心にしみた。
私は決して誰にでも認めてもらえるような要領のいい人間でないし仕事のできる人間でも世渡りの上手な人間でもないが、それでも私を認めて繋がってくれる人、繋がっていてくれる人がいる。
それは私にとってとても幸せなことだ。そのタイミングを掴むことができる自分も、誇りに思っている。だってチャンスを掴めるということは、行動しているという証拠だから。
あと、私の場合は人を頼れているという証拠でもある。
自分一人でできることが限られていることを、この竹籠製作を通じて私は痛いほど知った。
私一人でできたことなどほとんどない。
けれど、私がいなければできなかったことだ。
私の竹籠に限らず、どんなことでも、誰であっても、少なからず、そうなのかもしれない。
不得手なことは得意な誰かの力や知識を、敬意をもって借りる。
逆に自分が力になれるときは惜しまない。
そして何より、たとえ見えていないとしても自分が誰かに助けられていることを認識できる自分でいたい。
全方向に対してそういう自分であれかったとしても、ここだけは、と思う大切なところにだけは芯を貫きたい。
そういう姿勢が次の出会いや機会やチャンスに繋がっていくと思うし、人との関わりを保っていくのだと思っている。
私を認めてくれる方に恥じない私でいたい。
そして、自分が認められる自分でいたい。
そういうわけで、週末はまた竹を背負って町を行くことになるのだろう。
雨が降らなきゃ自転車だけど、雨だったら今度は地下鉄に竹持って乗ることになるかもしれない。一メートルくらいの竹を背中に背負ってね。視線の避雷針になること間違いなし。
それはまたそれで、話のネタになるだろうか。
週末が楽しみである。