大阪のキリシタンと肥後南部
キリシタンと言えば、九州、それも長崎とか五島列島のイメージがないだろうか。少なくとも、私はそうだった。そのイメージは実際、間違ってはいないのだけれど、キリシタンの歴史を探っていると、大阪のキリシタンもかなり重要な存在なのではないかと思うようになった。というのも、大阪のキリシタンは、割と早い時期にキリスト教に改宗していて(高山右近の父親もここに含まれる)、彼らや、その次の世代が、キリシタンの迫害期に日本各地に散らばっていったからだ。今日は、その中でもとくに、小西行長に付いて、肥後南部に入った大阪のキリシタンについて見ていきたい。
1588年、秀吉は、加藤清正と小西行長に肥後統治に関する朱印状を出し、清正には、玉名郡、山鹿郡、山本郡、飽田郡、詫摩郡、菊池郡、合志郡、阿蘇郡、葦北郡が、行長には、肥後南部(益城郡、宇土郡、八代郡、天草郡)が与えられた。このとき、行長が編成した家臣団のうち、小西一族と親類衆(重臣)はキリシタンばかりであり、親類衆の多くは大阪河内のキリシタンであった。たとえば、河内烏帽子形(河内長野市)を所領とし、地元で有力なキリシタンだった伊地智(伊地知)文太夫や、河内岡山(四条畷市)の有力者で1563年にキリシタンになった結城忠正の甥で、京都の南蛮寺建設に関与するなどした結城弥平次は、このとき、行長の親類衆(重臣)になっている。秀吉が、清正と行長に肥後統治を任せる一年前、伴天連追放令が出されており、行長は、この追放令に際して、表向き、秀吉に棄教の意思を示していたようだが、上記のようにキリシタンをたくさん重用した。武家の出ではなく、堺と縁が深く、イエズス会人脈による貿易などが強みの小西家にとって、キリシタンたちは手離しがたい人脈だったろうし、伴天連追放令によって、大阪に居づらくなった有力キリシタンたちにとっても、キリシタンに理解のある行長に付いて肥後南部に入るのは悪くない選択だったのかもしれない。
さて、行長の肥後南部の中心は宇土城で、その支城として、木山城、隈庄城、矢部(岩尾・愛藤寺)城、八代城があったが、これら支城の城代は、皆、上述の小西一族や親類衆であった。たとえば、隈庄城の城代は、小西主殿助(行長弟、洗礼名ペドロ)と小西忠右衛門(行長甥、主殿助の息子か)であったし、矢部(岩尾・愛藤寺)城の城代は 結城弥平次(洗礼名ジョルジ)、八代城の城代は 小西末郷(木戸作右衛門、小西美作とも、洗礼名ジアン)であった。(木山城の城代だった伊藤与左衛門については、よくわからない。)とはいえ、行長はすんなりと肥後南部に入れたわけではない。天草五人衆の抵抗にあい、この戦い(天草一揆)で、河内からついてきた伊地智文太夫が戦死してしまった。天草一揆は、行長というより、秀吉への抵抗であったので、このときは、行長は清正と共闘して、この一揆を制圧した。そして、堺の商人・日比屋了珪の息子で、小西家と親族関係にあり、やはり親類衆であった日比屋了荷(洗礼名ヴィセンテ)を、天草志岐城の城代にすえた。この了荷統治下の志岐には、西洋美術工房ともいえる画学舎が1592年頃には設置され、この画学舎では、イタリア人画家ジョアン二=二コラオを中心に、教会で利用される聖像画・祭壇画が製作されたり、時計や、竹管によるパイプオルガンなども作られていたという。このように、行長の肥後南部の要所には、小西一族や大阪の有力キリシタンたちが配置された。彼らは、朝鮮出兵の折には、行長軍の中核を担ったり、行長が留守中の肥後南部を統治したりした。彼らの土地では、ひそやかにキリスト教が保護されていたが、秀吉の死後、行長がおおっぴらにキリスト教の宣教をはじめたことは以前書いたとおりである。しかし、彼ら肥後南部のキリシタンの春は長くはなかった。1600年、関ヶ原の戦いに敗れて行長が亡くなると、たとえば、八代城代だった小西末郷は清正による八代城攻撃によって薩摩に逃れ、翌年同地で亡くなったし、矢部(岩尾・愛藤寺)城代だった結城弥平次は、行長没後、肥後を離れ、1602年から肥前有馬氏に仕えるも、1613年、キリシタンを理由に長崎へ追放されることとなった。大阪のキリシタンではなかったが、元丹波守護代の有力キリシタンで、やはり行長の親類衆であった内藤忠俊(小西如安、洗礼名ジョアン)は、朝鮮出兵の際、行長の命で北京に派遣され、明皇帝と謁見し、講和交渉に尽力し、行長の死後は、結城弥平次とともに肥後南部キリシタンの中心となったようだが、結局、高山右近のいる金沢に移動、1614年には、キリシタンであることを理由に、右近とともにマニラに追放され、同地で亡くなった。
(参考文献
①『小西行長 「抹殺」されたキリシタン大名の実像 史料で読む戦国史』鳥津亮二著、八木書店、2015年
②『戦国河内キリシタンの世界』神田宏大、大石一久、小林義孝、摂河泉地域文化研究所編、批評社、2016年
③『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』五野井隆史監修、宮帯出版社、2019年)
ところで、そもそも小西行長って、どういう人だっけ?と思われた方は、宜しければ、こちらの記事もご覧ください。↓
(標題は、文禄の役の『釜山鎮殉節図』(wikipediaより引用)の一部。図は、釜山鎮城攻略の様子で、左側に密集しているのが日本の軍船。小西軍も釜山鎮を包囲した。)
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