紫がたり 令和源氏物語 第四十二話 紅葉賀(一)
紅葉賀(一)
藤壺の宮は懐妊してからというもの、物想いが深まるばかりで、度々の主上(おかみ=帝)の催促にも応じることができずにいらっしゃいましたが、夏になる頃に宮中へ戻られました。
宮の面やつれした姿は返って艶やかで、我が子を宿しているのだと思召されると、帝はこれまで以上に気を配り、優しく愛情を示されます。
十月十日過ぎには前々から準備をしていた朱雀院への行幸がありますが、これは普段内裏から離れることのない后達は見ることが出来ません。
前々から時間をかけて準備したせっかくの盛大な催しを后達に見せられないのを惜しく思召した桐壺帝は格別の取り計らいとして、清涼殿の前庭で舞楽の試演をさせることにしました。
「やはりあなたに見てもらいたいのだよ」
そう帝が藤壺の宮に愛情込めて仰せになるのを嬉しく思う宮ですが、心の奥底ではその優しいお言葉が苦しくて、我が身を苛むもの以外になりましょうか。
宮は帝の愛情を感じるたびに御心が千々に裂かれるような辛い思いをされているのです。
試演の当日、帝は清涼殿の前庭に金で飾った真新しい白木の舞台をしつらえさせました。
五色の錦が掲げられ、本番そのもののような厳かな雰囲気です。
楽人たちの日頃の研鑽で美しい音色が響き渡り、試楽とは思えない立派な舞が披露されていきます。
そして空が夕日色に染まった頃、そこに一条の光の如く登場した源氏の君は『青海波(せいがいは)』という舞楽を舞いました。
この舞楽は「青海波」という波文の裂(きれ)を纏うことからこのように呼ばれておりますが、穏やかな波文は海が荒れることなく平和であるようにという願いが込められたものなのです。
『青海波』は二人舞ですので、お相手はこちらも美しい貴公子・頭中将。
そのゆったりとした動きの中にぴんと張りつめた空気が当代一と並び称される二人の貴公子の面を輝かせます。
すぐ側の御簾の向こうには愛しい藤壺の宮がおられると思い、源氏は我が想いよかの人に届けとばかりに心をこめて舞うもので、その素晴らしさは言葉に表せるはずもありません。
ふいに楽の音が止み、しんと静まり返ると、源氏の君がつと中央に進み出でました。
詠吟の場面です。
源氏の朗々と美しく響く声は、かの西方浄土に棲まうという伝説の迦陵頻伽(かりょうびんが=上半身は人で下半身は鳥という生き物で、その唇からは天空の楽がこぼれでる、とされています)がかくあらむ、と思われるばかり。
帝をはじめ、側近くでご覧になっていた公卿や親王たちもみな感動に打ち震え、聞き入りながら涙をこぼしておられました。
ただ一人、春宮の御母・弘徽殿女御(こきでんのにょうご)だけは、
「あまりにも美しすぎて鬼神にでも魅入られそうですわねぇ。逆に気味が悪いこと」
などと意地の悪いことをおっしゃいましたが、それは妬み故のこと。いつもの調子と周りも相手には致しません。あれほどの源氏の君の御姿を目の当たりにした者達は女御に対しては冷ややかなのでした。
藤壺の宮は源氏の君をせつなく見つめておられました。
もしもこの心のままにあの方を愛せるのであれば、神々しく立派な舞姿も素直な気持ちで心底素晴らしいと思われるのに、と気持ちが大きく揺さぶられるのです。
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