紫がたり 令和源氏物語 第百二十九話 明石(十六)
明石(十六)
源氏は心静かに明石の浦を見渡しておりました。
穏やかな時の流れを楽しんでいるかのようにも見られます。
その傍らには明石の君が寄り添っておりました。
桔梗の襲(かさね)を涼しげに着こなし、しどけない姿は新妻の艶やかさを帯びています。
それは夏も終わりそうな七月の二十日過ぎのことでした。
「殿、宣旨が下りましたぞ」
一の側近・惟光が息を切らしてお側に参じました。
「そうか・・・」
源氏は短く返事をしました。
帰京できるということに喜びを感じずにはいられませんが、それはとりもなおさずこの愛しい明石の姫との別れを意味することだからです。
几帳の陰に控えていた入道は思わずむせび泣きました。
「源氏の君、おめでとうございます」
それだけ言うとじっと悲しみをこらえます。
入道の気持ちとしては無理からぬことでしょう。
僅かな間とはいえこの世にも稀なる御方をお側近くで拝顔し、ありがたいものと慣れ親しんだ君が去ってしまうのです。
復権されれば念願は成就するのですが、君を慕う心は抑えきれません。
まるで掌中の珠が砕けたように心も千々に乱れるのです。
「おめでとうございます」
明石の君は気丈にも涙を見せずに頭を垂れました。
なんと見事な女人であろうか、紫の上の処し方も立派なものだがこの人も素晴らしいと源氏は感銘を受けておりました。
実は明石の姫は今源氏の子を身籠っております。
悪阻がひどく、面痩せした感じがなまめかしく感じるのはこの人の持って生まれた高貴さゆえでしょうか。
きっとこの女を見捨てることはあるまいよ、と源氏は心に誓うのでした。
帰京が決まるとそれまでは人目を憚っていたものの、明石の姫への愛情を抑えられずに足繁く山手の御殿へと通う君です。
恋を奪われた良清は傷ついておりましたが、これも縁と諦めました。
何より想いを懸けていた姫が源氏の目に留まるほどの女人であったということが誇らしくも思われます。
惟光は月のない浜風の緩やかな晩に良清と酒を酌み交わしました。
「女など星の数ほどあるのだからな、そう悲観してはいまいよ」
惟光に慰められる前に良清は気丈に言い放ちました。
「そうさな、都には星の数ほど美女がいるぞ」
「都か、戻れるのだな」
「おおとも、良清少納言どの。きっと官位もまだまだ上がるぞ。そうなれば美女も選りどりみどりだ」
惟光の口ぶりが滑稽で思わず笑みがこぼれます。
「あの人は幸せなのだろうか」
「殿は姫を見捨てるような方ではない。子もあることだし、鄭重に扱われることだろう」
「うむ、それならばよいのだ。私は大納言にもなれるかな?」
「おお、なれようとも。天下一の源氏の君の側近なのだから」
「飲むか」
「飲もう」
この二人の側近は元々互いを頼りにして源氏にお仕えしてきたのですが、須磨、明石での辛い境遇でさらに絆は深まったようです。
これから天下人となられる君にとっては欠かせない二人なのでした。
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