令和源氏物語 宇治の恋華 第七十七話
第七十七話 うしなった愛(十)
中君が背とした宮がまこと尊い御方であるというのを宇治の人たちが思い知ったのは遊行されたその時なのでした。
山荘では宮をお迎えしようと邸を浄めて飾りつけも充分と用意万端にして、ここいらの田舎の山荘にしては小奇麗で極上であると思われたものの、どこからともなく流れてくる楽の音が、貴人たちが歌を詠みながら舟を浮かべている様が視界に入ると、それは天上の光景とばかりに思われてなりませんでした。
美しく飾られた小舟には燃えるような紅葉を挿頭(かざし=冠に挿す飾り)とした美しい貴公子たちが色とりどりの直衣を纏ってほがらかに笑んでおります。
妙なる調べに酒を含みながら謳うその声には天人までもが羽衣を翻して寄り添うように思われます。
その輪の中心にいるのが匂宮なのでした。
女房たちが白昼夢を見るかの如くはしゃぐ声が中君と大君にも聞こえてきます。
しかし姉妹は同じようにはしゃぐ気にはなれません。
中君はその怜悧な頭脳で自分の夫がどのような人であるのか知ったのです。賤しく愚かなれば諸手をあげて無邪気に見られた光景が、中君には悲しい別世界に思われてなりません。
「お姉さま、やはりあの御方は雲居の遠いお人でしたのね」
大君はあの宮さまに相応しく中君も神々しいとは思いましたが気圧されて、妹に返す言葉も見つかりませんでした。
ただ宿縁という言葉を信じればこそ、
「それでも宮さまがあなたを望まれ縁が結ばれた、それがお導きだとわたくしには思われるのですよ」
と妹を見つめます。
その穢れを知らぬ凛と強いまっすぐな瞳に中君は幾度となく救われてきたものです。
ほっと安堵する反面、これが己の宿世というものならば自分はこれからどこに流されてゆくものか、と一抹の不安を覚えるのです。
「宮さまをお迎えするのに足らぬことはないか確認してくるわね」
姉姫はふんわりと笑んでその場を離れました。
妹のことが何よりも心配であるのは本心ですが、大君も中君と同じく動揺しているのです。
ほんの少しばかり都の風が吹いてくるだけで己の保ってきた矜持が吹き飛びそうなほどに。
光輪の中にいる貴人に混じり殊更に輝く薫君の御姿がまさに中君の言う雲居の人であるということを思い知らされて、君を遠く感じては寂しさと恋しさが募るばかり。
いつからこのような物思いが自身に憑りついたのか、大君はただただ頼りなく心細くて、消え入るような儚さを覚えるのでした。
気の置けない仲間たちと楽しく紅葉を愛でる遊行は匂宮にとっては久方ぶりの息抜きとなりました。
ふと目を転じれば薫が笛を吹きながら意味ありげに目配せをしますし、川に小舟を乗り出せば恋しい中君がおわす山荘が望めるのですから。
匂宮は奏でる琴の音色も中君届くようにと、早く逢いたいという想いをこめて掻き鳴らします。
その艶やかな音色に宮の御心を感じ取った薫は満足の笑みを浮かべました。
共に山荘へ罷り越し、大君と秋の夜長を語らいたいと思う薫の恋情が笛の音にまろみを増して皆の心に沁み渡る、なんとも思い出に残る遊行となる筈でしたが、夕霧の右大臣はそれほど甘い御仁ではありません。
実は匂宮の意中の姫が宇治に隠れ住んでいるという情報はすでに耳に届いており、それが故八の宮の姫であろうと目の上のたんこぶのように忌々しく考えているのです。
匂宮が出かけたと聞くや否や息子の衛門督(えもんのかみ)を正装させて山里へと差し向けさせたのでした。
「宮さま、なんとも水臭いではありませんか」
そういう衛門督はどこか不敵で名門の誇りを笠に着る鼻持ちならない感じが匂宮には不快なのです。
わざわざ正装して来るのも暗に宮の気楽さを非難しているわけで面白くなく、実のところこの衛門督は父・夕霧言いなりの優等生であって道を外すことなど考えもしないつまらない男なのでした。
まぁ、官吏として、父の間諜としてはこのレベルが使いやすいということなのでしょう。
薫は甥ながらこの人がここに来てはいろいろと便宜もはかり辛いと顔を顰めました。
どうにか夜半には中君の元に渡る算段をつけようと隙を見るものの、衛門督は匂宮に張り付いて離れようともしません。
「なにしろ中宮さまも心配なさっておいでですから」
とその意向を逆手にとっての言い分に、夕霧の進言なくしてはこうまでおおげさにならぬものを、と憎げに思う薫なのです。
出掛けることも儘ならず興が冷めた宮は部屋へ引き籠って中君への手紙をしたためました。
まるで天帝によって裂かれた牽牛と織姫のように、宇治川が天の川のように思われる匂宮と中君。
小舟を乗り出せば出逢えるものをそれが許されぬ身の上なのです。
中君も川向こうに見える篝火がどんどん遠くへ隔てられるように思われて、遠く京に宮がおられる時は仕方ないと諦めもつくものの、このようにすぐ側におられるのにどうにも逢えないことほど辛いものはない、と蔀を下して視界を塞ぎました。
なんと思うようにならぬ恋路でしょうか。
逢えない時間が積もるほどに想いは募りますが、ちょっとしたことで心もすれ違ってゆくものなのです。
中君は匂宮に返事を差し上げませんでした。
それはお供の方々も多く賑々しい場に自分の手紙を届けるのも憚られ、お忙しい宮さまからさらなる返事を頂けねば恨んでしまうであろう己をあさましく思われたからです。
しかしながら宮にしてみれば返事が来なかったことで中君が自分を深く恨んでいるのであろうと気持ちも暗く沈むのでした。
せめてもうしばらく滞在を延ばして何とか中君に逢おうと試みましたが、京からさらに大勢の出迎えがよこされて、まるで攫われるように京への旅立ちを促される匂宮なのです。
「薫中納言よ、こちらに」
「は、三の宮さま」
「心は宇治へ置いてゆく、とあの人に伝えておくれ」
「かしこまりました」
薫は深々と頭を垂れると、気配を消すようにして行列を離れました。
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