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令和源氏物語 宇治の恋華 第六十一話

 第六十一話 恋車(二十三)
 
夜も更けて女房たちの狂乱も何処へやら、皆が寝静まると代わって山風が荒らかに吹きつけて山荘をぎしぎしと揺らし始めました。
大君はもう薫君はこないであろうと気を抜いて休もうとしましたが、この山風に乗じてこそ忍びこむのも紛れるものと薫君は寝所に近づいているのでした。
先を歩くのは弁の御許です。
大君と中君が一緒の部屋に休まれるのを懸念しましたが、薫君は大君と一度お逢いになっているので間違われることはあるまい、と音も立てずに君を寝所の入り口まで導きました。
大君は微かに漂う薫君の芳香に信じられない心地で狼狽しました。
なんということ、薫さまが忍んでいらっしゃる。
そう思うや身を起こして屏風と壁の隙間に逃れて身を潜めました。
何も知らずに眠っている妹が不憫で共に隠れようかと逡巡しますが、君の芳香は益々強まり、今出て行っては見つかってしまいそうです。
どうせ薫さまには中君をと考えていたのだからここで二人が契りを交わすのならばそれでよいと思う心もありますが、それを目の当りにするのが辛くもあるのです。
体中に汗がじんわりと滲み、息を殺して気配を悟られまいとしていると薫君はすでに袿姿で躊躇なく几帳の帷子を引き上げました。
大君はそのようにくつろいだ殿方の姿を見るのは初めてで、物慣れたように女人の寝所へ押し入る姿が艶めかしくて憎らしい。
 
ずいぶんと経験がおありになるのね。
 
そう思うだけで薫君に逢った女人たちへの嫉妬を覚えずにはいられません。
大君は薫君がやはり男性であるということを思い知り、打ちのめされたのです。
中君がどんなに驚くであろうかと申し訳なく、恨まないでほしいと願うばかり。
これでよいのだ、と己に言い聞かせて耳を塞いで目を背けました。
薫は大君が眠っておられると嬉しく胸をときめかせましたが、その肩に触れてすぐにそれが大君でないことを悟りました。
灯りを引き寄せてみるとそれは中君。
あの心憎い人はどこぞで自分を嘲っているのか、と暗澹たる思いが込み上げてくるのです。
中君は明るさで目を覚まし、近くに薫君がいるのに驚きました。
「薫さま」
「中君さま、申し訳ない。あなたを驚かせるつもりはありませんでした。無礼を働くつもりはありませんのでどうぞお許しください」
中君はあまりのことに声もでませんでしたが、心を打ち砕かれたように悄然とする薫君を詰る気にもなれません。
薫は中君が心を鎮められたので、中君にだけ聞こえるように囁きました。
近くで大君が見聞きしているとするならば、醜態をさらすのも恨み言を聞かれるのも癪に障るものです。
「どうやら大君さまは本気であなたと私を結婚させようとお考えのようですね」
「そんな、まさか。お姉さまに限ってこのような不意打ちをなさるなんて」
「私の邪推ならよいですが現に姉君はここにおられないではないですか」
無言の中君は青ざめたようであるものの美しい顔立ちと愛嬌のある口元が魅力的です。
 
普通の男ならばこの姫を前に素通りなどはしないであろう。
だが、大君の目論見通りになるのは面白くないことよ。
 
「私はどうやら姉上に嫌われているらしいですよ」
「そんなことはないと思いますわ」
「あなたは優しい方ですね。もしも姉上の意志に従って私があなたに結婚を申し込んだら受けて下さいますか?」
中君は真正面から愁いを含む薫君の澄んだ瞳を見つめました。
まるで吸い込まれるように深い苦悩に満ちた瞳です。
「わたくし、どうお答えしてよいかわかりませんわ」
「戯れ言を申しました。あまりにあなたの姉君がつれなくて。この場の話は二人だけのものと致しましょう」
そう言って踵を返す薫君の背中は寂しそうで、中君は胸が苦しくなりました。

次のお話はこちら・・・


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