令和源氏物語 宇治の恋華 第三十三話
第三十三話 会うは別れ(三)
対岸から催馬楽(昔からある民謡を雅楽風にアレンジしたもの)の『桜人』が聞こえてくると、匂宮は忸怩たる思いでそれを聞いておりました。
気軽にどこへなりとも行けぬ身分を捨てたく思いますが、それをできぬ自分というものをよくわかっているのです。
せめて姫君たちに自身の存在を知らしめたい、そんな気持ちから見事に咲いた桜の枝を手折らせて文をしたためました。
山櫻匂ふあたりに尋ねきて
おなじかざしを折りてけるかな
(山桜のように匂うばかりに美しいというあなたがたの噂を聞きつけて山里へやってきましたが、あなたがたの姉妹ともいうべき艶やかな枝を挿頭とすべく手折ってしまいました)
匂宮はとりわけ美しい童にこの文を結びつけた桜の枝を持たせて姫君たちに贈りました。
さても蜂の巣をつついたように騒いだのは姫君の女房たちです。
若い女房は殊更に世に名高い匂う兵部卿宮からの便りということで興奮状態なのです。
姫君たちもどうしたらよいのか父君に伺いをたてたくとも客人をもてなしているところに水を差すわけには参りません。
老女房の弁の御許は気を利かせて助言をしました。
「遊行でいらしているものを懸想文と取るのはどうでしょう?返事が遅れると侮られますので、ここはさらりとお返しになった方がよいですわ」
たしかにこうした戯れの文は躱した方が無難である、弁の御許の指摘は尤もなことと考えた大君は自分の詠んだ歌を妹姫にしたためさせました。
なぜ薫中将と違って自ら筆を取らなかったのか、そんな乙女らしい気持ちに気付くにはこの姫はあまりにも初心なのです。
かざしをる花のたよりに山賤(やまがつ)の
垣根を過ぎぬ春の旅人
(挿頭するための枝を折る為にこのような山里にお越しになったのでしょう。わたくしどもには関心などもお持ちになるはずがありませんものね、行き過ぐ春の旅人よ)
この返事を見た匂宮はやられた、と思いました。
柔らかい女人らしい手跡に手応えのある詠いぶり、薫が言うような賢しい美女が隠れ住んでいるのであれば尚のこと見逃せぬ、と執着は強まるばかりです。
そのように心はこの地に繋ぎとめられているものの京からは帝の遣いとして藤大臣(柏木の弟・かつての藤大納言)が迎えとして参上しました。
藤大臣は密かに娘の中の君を匂宮と娶わせたいと目論んでおられる御方。
まこと人の縁というものは思うにならないものでございます。
いつかまた必ず宇治に、そう思いを残した匂宮は薫の仲立ち無くとも姫君にお手紙を差し上げるようになりました。
八の宮は思わぬところから吹いてきた風に驚かれましたが、匂宮の色好みの評判を知っておりましたので匂宮の心を本気とは考えませんでした。
「匂宮は先日宇治にお越しになった際にこうしたさびれた里に皇族の姫がいると聞いて珍しく思われたのであろう。ほんの戯れであろうから、懸想文というようにこちらが受け取ると却って気を揉まれるかもわからぬ。それとなく失礼のないように御返事だけはお書きなさい」
妹・中姫は素直に父君のおっしゃることに従い、返事をしたためるのですが、大君はそうは致しません。
潔癖な姫君はこうした懸想めいた軽々しいものをよこす匂宮を快く思えないのでした。
否、その胸にはあの清廉な薫君の姿が焼き付いていたのかもしれません。
恋というものを知らない大君にとってその感情が何であるのか、推し測る術もないのでした。
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