令和源氏物語 宇治の恋華 第十二話
第十二話 花合わせ(八)
蔵人の少将は一度だけ大君から返事をいただくことができました。
それが大君が入内するその日とは皮肉なもの。
夕暮れには輿入れというその日、大君は睦まじくすごしてきた妹の中君と別れねばならぬのが悲しくて、思い出の桜を端近で眺めておりました。
「今年の桜も見事だったわね」
すでに支度は整えられ、まばゆい冠がきらきらと輝いて、今まで見た姉の姿で一番麗しい様子に寂しく中君は笑みを返します。
「ええ、お姉さま。私の桜となったあの木ですが、もしもお姉さまに差し上げることでお姉さまがお嫁に行かなくてよいのであればそうしますのに・・・」
「いずれこの日が来るとは覚悟していたけれど、思っていたよりも悲しいわ」
姉の涙を妹君がそっと袖で拭うのも、もうこれで最後かと思われるのです。
美しい姉妹が手を握り合ってさめざめと語り合っているところに、中将のおもとが少将からの手紙を届けました。
そこには綿々と大君への恋心がしたためられてありました。
あなたが他の方に嫁ぐなど、悲しみのあまりに長く生きられない心持ちです。
どうか私をあわれと思うならば、「可哀そうだ」とだけでもお返事をいただければ、今しばらくは永らえるとこもできそうです。
恋も知らずに嫁ぐことになった大君は、何故少将が毎回このように思い詰めた手紙をよこすのか理解ができませんでした。
そして死ぬという言葉を軽々しく使われるのも違和感を覚えずにはいられないのです。
「この方は立派な大臣のお父様に恵まれて、お母様も身分のある御方でしょう。ご自身も出世間違いないと覚えも高いのに、生きるの死ぬのと、大げさではありませんか。わたくしにどうしろというのでしょう」
「お姉さま、それが恋というものなのでしょう。聞くところによると、物想いのあまりに亡くなってしまう方もいらっしゃるのですってよ。気の毒な方ですわ」
「そうなの。それならば気の毒だわね」
大君は少将の手紙に、人はみな思うようには生きられぬ『可哀そう』な存在ですわ、と書きつけました。
「おもとや、これを書き直してお返事として差し上げてちょうだい」
「かしこまりました」
あれほど大君の手紙を待ち望んだ少将にいまさら代筆の手紙を差し上げるのも気が引けて、おもとはその書きつけられた手紙をそのまま少将へ返しました。
「ようやくあの人から返事をもらえたのに、辛すぎる。私を認めてくださらなかった玉鬘殿も憎い。いつか私を選ばなかったことを後悔させてやりたいものだ」
「おめでたい日にそのような悪しき言葉を仰ってはいけませんわ」
「それで大君の入内が中止になるならばいくらでも吐いてやるとも。私はこの屈辱を思い返すたびに血の涙を流すであろう」
おもとは少将の呪いをこめた慟哭に小さい悲鳴をあげました。
「もうあなたとお会いすることはありませんでしょう」
そう少将に言い放ち、背を向けましたが、背筋がぞっと冷たくなるのを禁じえません。
邸に戻るとお祝いムード一色で女房達もその晴れがましい雰囲気に酔いしれておりました。
「中将、あなたも早くお支度をなさらないと。お隣の按察使大納言さまが立派な牛車を何輌もよこしてくださったわ。あと半刻ほどで冷泉院へ出立するのよ」
「かしこまりました」
夕霧の大臣の他の若君たちもお供にと集い、みな主人の玉鬘から差し入れられた酒で祝杯を挙げております。
このように祝福されて、大君様はきっとお幸せになるに違いない、とおもとは気を持ち直したのでした。
陽も傾いて、美々しく飾られた牛車を何輌も連ねた行列はゆるゆると冷泉院へと向かいます。
先導を務めるのは白馬に揺られる近衛右近の中将・薫君。
その眩しい御姿を一目拝もうと大路にはたくさんの人が溢れておりました。
どこからともなく漂う藤の香りが一段と高まり、民草はこれが噂の『薫君』であるか、とその尊さに手を合わせて拝む者もある。
荘厳な旅立ちが華々しく、すべてが大君の幸せを祈ってやまぬ、とそんな道行きなのでした。
こうして大君は無事に冷泉院の元へ輿入れし、その御縁が深かったのか、瞬く間に御子を懐妊され、女二の宮をもうけられました。
そうなりますと益々院の関心は大君に寄せられて、それはもう厚いご寵愛を賜りました。
立て続けにご懐妊となりますと、あの穏やかな秋好中宮は喜ばれましたが、他の女御達の見る目が徐々に厳しくなるのは致し方なきこと。
玉鬘は思わぬ幸運に恵まれたと喜んでいたものの、あちこちからあからさまな嫌がらせが始まると、娘が不憫と胸を痛めるようになりました。
てっきり入内を後押ししてくれた異母妹の弘徽殿女御が庇ってくれると宛にしていたものが、実際に院が大君を厚遇されると女心故にそのようはいきますまい。
まるで掌を返したように無言を貫かれるもので、玉鬘はほとほと困ってしまいました。
出産を理由に大君が宿下がりをしているうちは平穏でしたが、授かったのが待望の皇子であったことから、院からの参内の催促の使者は毎日のように邸に訪れます。
薫が皇子誕生の祝いに玉鬘邸を訪れると、御簾の向こう側では義姉がたいそう悩ましく深い溜息を吐かれました。
「義姉上、どうなされました?」
「なかなかうまくいきませんわね。まさか女御達に恨まれて、里に下がれば院のご機嫌がよくないということで。薫さまから院にうまくとりなしていただけないかしら?」
また厄介なことを言ってくれるものだ、と薫は深い溜息をつきました。
「入内とはそういうものだとわかっていらしたでしょう。柳が風をいなすように泰然とされるのがよろしかろうかと・・・」
玉鬘も無茶を言っているのはよくわかりますが、なんとも味気のないいらえに、この君も大君を慕ってくれていたのを無下にしたと面白く思っていないのであろう、と暗澹たる気持ちでまた深い溜息を吐くのでした。
大君が冷泉院に入内した件で、今生は約束を反故にされたと機嫌を損ね、頼りの息子たちは冷遇される始末。
どちらを向いても具合が悪いことばかり。
後ろ盾の無い頼りない身で高望みをした報いかとやるせない。
噂によると例の蔵人の少将はお隣のかつて按察使大納言と呼ばれていた左大臣の姫君を娶られるとか。
今では身分も高くなり、玉鬘は何かをしくじってしまった、と後悔の念ばかりに苛まれるのです。
塀を隔てて、こちらの一門は零落の一途しか見えないのでした。
※「花くらべ」とは「花=さまざまな姫君たち」が「合わせ=競い合う」というところから創作した造語です。あちこちに咲き誇る姫君たちに翻弄される貴公子達の心情を描いた場面でしたので、このように名付けました。
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