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紫がたり 令和源氏物語 第三百六十話 若菜・下(二十六)

 若菜・下(二十六)
 
女三の宮の御加減が悪いと聞いた源氏は紫の上に続いて宮までもかと動揺を隠せませんでした。
そこで早速六条院を訪れることにしたのです。
宮は少し痩せられたようですが普通に御座所におられたので、安堵する君でありますが、どうにも宮が伏し目がちにしょげ返っていられるので、さては打ち捨てられたと拗ねておられるのかと考えました。
「宮さまのことを忘れているわけではないのですよ。紫の上がどうにも長く生きられないようであるので、せめて最後は看取ってやりたいと思うのです」
「はい、わかっております。紫の上さまの具合はいかがですか?」
「ええ。なかなか良くならず、起き上がることもできないのですよ」
「早く回復されますよう祈りますわ」
宮はただただ源氏に申し訳なく、目を合わせられません。そしてこの不義を知られればどれほどきつく叱られるか、と内心怯えているのでした。
 
そ知らぬふりを決め込んだ小侍従の元には毎日柏木から「今日はどうだ?」という手紙が送られてきます。
その日は源氏が渡られているので無理だという返事を書きましたら、受け取った柏木はおかど違いな嫉妬で胸を焼かれるように平静を保つことが出来ないのです。
あれから柏木はまためっきり人嫌いのようになって邸に引きこもっております。
賀茂祭りがあるので仲の良い公達が誘いに来ても断り、参内するのも億劫で仕事もおろそかになっているのです。
もちろん妻である女二の宮の元へも通いません。
近頃女二の宮は顧みられない辛さに自分のどこに非があるのかと悩まれておられるようです。勿論柏木の女三の宮への横恋慕が元凶ですので、なんの宮に落ち度などあろうはずもありませんが、秘事でありますので、宮は知る由もありません。
このような負の連鎖を紡ぐ状況がよいはずもなく、柏木の心は徐々に蝕まれてゆくのです。
 
源氏はなんとか宮を慰めて六条院で夜を明かしましたが、明け方に紫の上が息を引き取ったという悲報が届きました。
「私が居ぬ間になんとしたこと・・・」
源氏は前後不覚なほどに取り乱して急ぎ二条院に戻りました。
二条院では通りにまで嘆き叫ぶ声が響いております。
皆涙に濡れて近しい女房などは後を追おうと念仏を唱えているのでした。
「みな、静かにしなさい。物の怪の仕業かもしれぬ。僧たちを次の間に呼び祓いをさせよ」
そうして二条院に残っていた僧たちが声を合わせて読経を始めました。
源氏が紫の上の手を取り、涙を流しながら息を吹き返すよう神仏に乞う姿は哀れで、周りの女房たちも源氏がこのまま後を追うのではないかと思われるほどでした。
そんな姿を御仏も哀れに思われたのでしょうか。
次の間にいた憑坐童(よりましわらわ)に物の怪が憑いて大声を発し狂乱しはじめると、紫の上がふうっと息を吸い込んだのです。
僧たちが読経の声を高めると童は苦しそうに言いました。
「源氏の院に申しあげたきことがある。それ以外は去れ」
これはいつぞやの葵の上と同じ状況ではありませんか。
源氏は背筋が冷たくなるのを堪えながら人払いを命じました。
「懐かしいあなた、わたくしはこのようにあさましくなってもあなたを思いきれないのですよ」
そう顔を上げた童の顔を源氏は忘れることが出来ようか。
やはりあの御息所ではありませんか。
「人をたぶらかす物の怪よ。狐の仕業ではあるまいか。亡き人の名誉を傷つけるようなことは許さんぞ」
「まぁ、おほほ。おわかりのくせに。姫を中宮にまでしていただいたことに恩は感じておりますが、死して後は魂は思うままに駆け行くものでございます。現世の親子の絆よりもわたくしを突き動かすのはあなたへの未練ですわ」
源氏は無言のままそのおぞましさに顔を歪ませました。
「あなた、いつぞやの夕べに紫の上にわたくしを重たくて嫌な女だとおっしゃったでしょう。それが辛くてあなたに憑いてやろうかと思ったのですが、神仏の護りが厚くて近づけませなんだ。紫の上はわたくしを憐れんでくださり恨みもありませんが、失うことになれば君の痛手となろうとこちらに憑きました」
「なんと・・・」
源氏は驚愕と嫌悪でたじろぎました。
「死んでも救われないのですよ。この罪障は深すぎてわたくしも苦しんでいるのに気持ちはどうにもならないのです。どうか斎院の中宮にわたくしのねんごろな供養をと伝えてください」
そうして御息所はどこかへと去ったようで、憑坐童はその場に倒れ伏しました。
冷や汗がひたひたと、あまりのことで言葉も出ません。
なんと執念深い御息所であろうか。
源氏は自分の行いが上の命を脅かしていたことに愕然としたのでした。

次のお話はこちら・・・


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