令和源氏物語 宇治の恋華 第三十五話
第三十五話 会うは別れ(五)
八の宮は薫が流す澄んだ涙を見て、この君が無垢な心の持ち主であると改めて感じておりました。
世間では薫君は冷静沈着で女人の誘いにも乗らぬ堅物と噂されております。
そしてそのつれない態度が些か冷たい人間のように言われることもありました。
八の宮は薫君と触れ合い、裡に抱える苦悩を垣間見て、その孤独と繊細な気性を知りました。薫君は誰よりも人の心に敏感でそれゆえに己を押し殺して生きてきたのに違いないのです。
世の噂など、まるであてにはならぬもの。
この御方こそ類まれなる尊き人である、だからこそ君に姫たちを託そう。
宮は御心を決められました。
「すまないな、薫殿。あなたまで心細くさせてしまった」
「いいえ。私は物心つく前に父と別れ、母も俗世とは縁を切っておりましたもので、肉親の縁の薄い身の上でございます。宮さまとお会いして、師というばかりではなく父のように慕っておりましたもので、別れなど考えるとどうにも悲しくなってしまいました」
「父と思うてくださるとはありがたい。あなたのような息子が持てれば私の人生でもっとも栄えのあることですよ。そんなあなただからこそ、姫たちをよろしくとお願いしたいのです」
「以前も申し上げました通り、私の命のある限り姫君たちをお守りいたします」
真摯に答える薫と八の宮の目が交わりました。
その刹那、宮の瞳には“姫をあなたに委ねる”という意志が籠っており、薫は結婚を許されたのだと察しました。
「お約束はけして違えません」
これから後も宮をまことの親として、孝行を尽くさせていただこうという思いをこめて、深々と八の宮へ額づきました。
「お顔を上げてください、薫殿。頼みましたぞ」
「はい」
八の宮は心が通じたことでもうなんの憂慮も要らぬと清く心が晴れてゆくように感じ、薫は宮に姫君を許されたことに感無量なのでした。
「今宵の月は美しいですなぁ」
「はい」
雲の切れ間から現れた秋月が皓々と辺りを照らすのも、心が虚ろではない今は優しげで、師と弟子は実の親子のように無言で言葉を交わしているのです。
「昔、宮中にあった折、こうした秋の宵には必ず楽がまつわっておりましたなぁ。私が特にしみじみと心惹かれたのは人々が寝静まってから、どこぞの局から響く心を映すように奏でられた楽でございました。女人の嘆きやわびしさの含まれた音色に、いたく心を揺さぶられたものでございますよ」
八の宮は以前薫君が所望した姫君たちの楽を披露しようと思われたのでしょうか。奥手な者同士が心を通わせるきっかけを作りたいと考えられたのかもしれません。
姫君たちの元へ渡られると得意とする和琴を爪弾かれました。
父に促されて大君が少しばかり筝の琴を掻き鳴らされ、短い合奏は終わりましたが、ほんのわずかな間でも薫君には大君の嗜みの深さが窺えるようです。
そして敬愛する宮さまの奏でられる音が深山に木霊するのを慈雨のように聞きました。
戻られた宮さまは満足に聞かせられなかったのを残念に思われているようです。
「このような荒涼な山里で育ったもので、今ひとつ情趣というものを解さない姫たちです。女親が生きておればまた違ったかもしれませぬが」
「いいえ、素直な澄んだ音色でございました。亡き北の方さまもきっと優しいご気性でいらしたのでしょう」
薫の言葉に宮はしばらく夢にもみなかった妻を思い返しました。
「よい妻でした。不遇な折にも私を見捨てずに、朝夕のあわれを共にしたものですよ」
薫にはそのような穏やかな夫婦の絆が羨ましく感じられました。
山寺の鐘が響き渡り、夜が白々と明けるのを心の一区切りとして宮は詠まれました。
我なくて草の庵は荒れぬとも
このひとことはかれじとぞ思う
(私が世を去りこの山荘が荒れても姫たちを守ると誓ってくださったあなたの言葉は変わるまいと私は信じます)
いかならむ世にか離(か)れせむ長き世の
契り結べる草の庵は
(約束を結んだ山荘がたとえ荒れてもどのような世でも約束を違えましょうか。私は違えません)
「相撲の節会など宮中行事が済みましたら、必ず近いうちにまたこちらに参上いたします」
薫がまっすぐに宮を見つめると宮は穏やかに微笑んでおられました。
八の宮は薫にとうとう本心を伝えることができ、薫もそれを受けてくれたことに安堵しておりました。
あの君が固くした約束を違えることはないと信じられるからです。
どちらかの姫と結ばれても、幸せになってくれればそれでよい。
もしも孫でも生まれようものならばこの手に抱きたいものだが、それは叶うまいよ。
八の宮はこの頃から身辺の整理を始めました。
わずかに残る財産を姫君たちに相続できるよう差配し、仕えてくれている者たちに持物を分け与え、これからも姫君たちに仕えるよう懇ろに頼んだのです。
老女房の弁の御許には薫に姫君を託したことを告げました。
「薫殿が姫を娶ってくださるかどうかはわからぬが、後ろ盾となってくださることは固く約束してくださった。あなたは人生経験も豊富であるから若い女房たちが浮ついた公達などを取次ぐことのないよう目を光らせていてほしいのだ」
「宮さま、それはもちろんでございますとも。わたくしの生い先も長くはないと思いますが、あの素晴らしい薫さまならいざ知らず、そこいらの若者に姫君を許すことなどはけして致しませんわ」
「あなたは頼りになるから安心だ。何分姫君たちは世間を知らずに生い立ってしまったものだから、その辺りもよく諭してあげてほしいのだよ」
「わたくしの力が及ぶ限り仕えさせていただきます」
弁の御許は柏木の忘れ形見である薫と自分が大切に思う姫君が結ばれるのはこの上ないことだと喜びました。
この山里で語らう相手が父と姉妹だけという寂しい境遇の姫君たちが女として生きる喜びを知り、薫君も幸せになるのであればこれほどのことはありません。
「はて薫君は大君と中君、どちらに関心があるようかな」
宮の問いかけに弁の御許は即座に答えました。
「どうやら大君さまに御心を寄せておいでのようです。大君さまも薫さまからの手紙にはお返事なさっているので、慕われているのかもしれません」
「そうか、たしかにあの二人ならば似合いだの」
八の宮の脳裏には幸せそうに寄り添う二人の姿がぼんやりと浮かんでおりました。
思慮深く、愛を貫く一途な薫君にどこか人の心をほぐすような慈愛に満ちた大君、似合いの一対であると将来が明るく思われるのです。
「よかった、よかった。これでもうこの世に思い残すことはないというものよ」
「宮さま、そんな不吉なことを仰ってはいけませんわ。これからおめでたい幸せが始まりますのに」
「うむ、うむ」
八の宮が嬉しそうに涙をこぼされるのを見て、弁の御許は死ぬまでずっと姫君と薫君にお仕えしようと心に刻むのでした。
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