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令和源氏物語 宇治の恋華 第五十六話

 第五十六話 恋車(十八)
 
今はまず八の宮さまへのねんごろな供養の為に心を込めて教典と願文を書き上げよう、そう決めた薫は真剣な面持ちで文机に向かいました。
いつでも心惑う時に癒しと救いを与えてくれるのは御仏のありがたい御言葉なのです。
一文字一文字を美しく丁寧に宮さまを思いながら綴ってゆくほどに先刻までの憂いも晴れてゆくように思われます。
いつしか宇治の川風や水音も耳に入らなくなり、薫は御仏の言葉に没頭してゆきました。
三巻の教典が書き上がる頃には数刻が経過して、陽はすっかりと落ちておりました。
「薫さま、よろしいですか?」
弁の御許が仏間の入り口に控えておりました。
「弁か、こちらにいらっしゃい」
そうして火影に振り返る薫君は亡き柏木の君と瓜二つです。
「大君さまがあちらにてお食事をご用意されております」
「そうか。すっかり日が暮れてしまったな。肝心の願文がいまだできあがっていないのだが、そちらはまた後にするとしよう」
そうして几帳面に硯をしまう姿などはまこと柏木の君の所作そのもの。
慕わしくて胸がせつなくなる御許ですが、今はこの君のために尽くそうと必死なのです。
「薫さま、先日大君さまとお話をいたしました」
そう言う弁の冴えない顔色を見て、先刻のつれないあしらいを思い返せば大君の返事はそれと想像がつくものです。
「私はそれほどまでに嫌われているのだね」
寂しそうな薫の横顔が弁には耐えられません。
「それがどうにも複雑な女心なのでございます。わたくしは思い切って大君さまに薫さまを想う心がないのであれば薫さまがまことの運命と巡り会えるよう中君を進めることなどおよしください、と申し上げました」
「うむ」
「そうすると大君さまと中君さまとは身は二つだけれども心は一つ。大君さまの心も添えて中君さまをさしあげたいと仰せになりまして」
「それはどうとらえればよいのか?」
弁の御許には衰えてゆく女の気持ちがわかるのですが、それを薫君に伝えるには大君には酷でありますし、男性である君が理解できるとは思えません。
「大君さまは父宮さまを俗世に長く縛り付けた咎を受ける為に独り身で通すと前から決められていらしたようですわ。ですが、中君さまにはその業を負わせたくない、という御心らしいのです」
「なんとも浮世離れした考え方をなさるものだ。宮さまを思えばこそ、姫君たちを託された遺言通りにするのが筋かと考えている私は愚か者のようではないか。父宮が半俗のようであられるとそうした考えも浮かぶのであるかなぁ」
弁の御許は大君は間違いなく薫君を慕っていると考えております。
しかし女人として未熟な姫はそれにどう応えてよいか惑うているのです。
さすれば些か強引な手段でも目を開かせることが必要ではないかとさえ思うのですが、果たして大君の気持ちを大事にする薫君がそこまで踏みこめるかどうか。
「大君さまは薫さまをお慕いしていらっしゃいますわ」
「そうだろうか」
「間違いありません」
そうであればこれほど嬉しいことはないであろうに、と薫はやるせない溜息をつくのでした。

次のお話はこちら・・・


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