令和源氏物語 宇治の恋華 第三十八話
第三十八話 空(くう)
父の逝去を聞いた姫君たちは失意に沈んでおりました。
最後に見た父は穏やかに笑って戻ると約束してくれていたではないか、何かの間違いではないか、と惑うばかりなのです。
御仏の教えでは残された者たちが死者を送ってやらねば御霊は縛られ後の世に生まれ変わる支障をきたすと言われております。
老女房の弁の御許はそうした理を説くように姫君たちを宥めました。
「宮さまは浄土へ旅立たれました。今は心からの弔いを姫君たちがなさらなくてどうするのです?気をしっかりお持ちくださいませ」
たといそれが亡き宮さまと姫君たちを思い遣る心情からだとしても、今の姫君たちには死者を記憶の彼方に葬るために人が作りだした方便だとしか思えないのです。
「父が亡くなったというのに送ることだけを考えよと?人の心はそう簡単にはわりきれませぬ」
いつも冷静な大君の取り乱した嘆きに弁の御許も何も言うことができませんでした。
この姫君たちをどうすればよいのであろう?
このような時ほど知性溢れる冷静な殿方が傍にいらしてくれたなら、と弁は願わずにはいられません。
殿方とは違い、感情に支配されやすい女ばかりではどうにもならぬ、とその脳裏には薫君を思い浮かべているのです。
そんな慰める術もなく、女房たちもただただ途方に暮れている折に山の阿闍梨がお越しになりました。
「阿闍梨さま、どうぞ父上さまに一目会わせてくださいまし」
縋る大君を見つめる阿闍梨の瞳には憐みの色が滲んでおりました。
「なるほど宮さまがご懸念されていたようなご様子ですな。だからこそ宮さまは私に即日葬送を願ったのでございましょう。もう宮さまの御遺骸はこの世にはございませぬ」
「なんということを・・・。阿闍梨は親子の情をまで否定なさるのですか?御仏は子は親を敬えと説いているではありませぬか」
「今敬う親にしてさしあげられることはその志を尊重することではありませぬか?そして心から祈ることでございますよ。なまじ御遺骸をご覧になれば思いを残すことにもなりかねることから宮さまは早い葬送を所望されたのでしょう。御仏の元へ旅立たれた宮さまを送って差し上げましょう」
せめて最後に父君に、と望んでいた大君はすでに御遺骸もこの世にはないということに愕然としました。
阿闍梨は姫君たちを不憫に思い、己の知る処の御仏の智慧を以て世の無常を、遺された者の有様を説きました。
「宮さまの御体はたしかにこの世には無くなりましたが、その存在まで喪われたということではありませんぞ。目に見えぬ者となっても想いがある限り側におられるのです」
しかし大君にはその言葉は耳に入らぬようでした。
滂沱の涙が縷々と溢れるばかり。
言葉もなく、中君と共に嗚咽を漏らしました。
山荘を後にした阿闍梨は女人とは生来罪障の深いものであるという教えを思い返して山道を踏み分けておりました。
一陣の秋風がその存在を知らせるように薄を揺らし、阿闍梨は抜けるように高くなった澄んだ空を見上げました。
こなたにおられるか、宮さまよ。
そうして人知れず一筋の涙を流されたのです。
薫は山の阿闍梨を訪ねました。
どうしても八の宮の最期のご様子を胸に刻んでおきたかったからです。
訪れを喜んだ阿闍梨は君に一杯の白湯を差し上げました。
「中納言殿、遠路遥々ようお越しくださいました」
「阿闍梨、ご無沙汰しております」
「まぁ、白湯でもお上がりください」
「はい」
ほんのり温もる湯冷ましがじんわりと五体に沁みて、澱のように溜まっていた不浄が抜け出てゆくようだと薫は感じました。
「あれは八月の二十日ばかりの頃でしたなぁ。十日ばかりの勤行と寺を出られる日でございました。宮さまはふいにお加減が悪くなられ、倒れられたのです。意識もしっかりしておられましたし、風邪かとも思うたのですがどうにも四肢に力が入らぬようでした。しかし宮さまは慌てる風でもなく、姫君たちへ手紙をしたためられました。すでに死期を悟っておられたのかもしれませぬな。御心裡では姫君たちの元へ戻られたかったでしょうが、すでにその身も御仏の掌の上にあったようでございます」
「最後にお会いした時の宮さまは無常を悟っていられるようでした」
「さもあらん。長年仏道に心を寄せられた清い御方でしたので、穏やかに息を引き取られましたよ」
「そうでしたか」
薫はつくづく宮さまらしい最期であるよ、と深く頷きました。
「姫君たちに臨終のご様子を伝えるべく山荘へ赴いたのですが、一目会いたいと泣かれましてなぁ。当然のことではありますが。しかし宮さまの生前のご希望で即時葬送ということになっておりましたものでそのように取り計らいました。姫君たちには恨まれたでしょうなぁ」
「姫君たちのお気持ちもわかりますが、もっともなことでございます。気に病まれますな」
「中納言殿にそう言っていただけるとありがたい。ところで、お亡くなりになる前に宮さまからお聞きしたのですが、あの姫君たちをお引き受けになったそうですね」
「はい。宮さまの心残りである姫君たちをお世話させていただくと約束いたしました」
「そうですか。宮さまは本当に御身を信頼しておられたのですな。宮さまがお亡くなりになる前にお話がまとまればよろしかったのだが」
「私はけして婀娜めいた気持ちでお世話しようというのでは・・・」
「わかっておりますとも。しかし御身はまだお若い。人の愛も喜びも知ってこそ御仏の慈愛に触れることができると私は思うておりますぞ」
「・・・。ありがとうございます」
阿闍梨の言葉は薫を励ましているようで、自然に頭を垂れる君なのです。
このまま姫君たちを訪れようという気持ちにもなり、ほんのわずかな面会でしたが、阿闍梨の言葉で薫の心は解き放たれてゆくように思われました。
御仏に逢うということは人の世もなべて知らねば叶わぬということが、人という定めに生まれた者の務めであるか。深淵を少しばかり垣間見た気がするのです。
山の空気は澄んで、霊性を帯びております。
目には見えなくてもそこにあるということをふと思い出した君は、般若経の一節を心に浮かべました。
色も空も同じである。
宮さま、あなたは空になられたがそこにあるということですね。
きっと想いは残り、姫君たちを見守っておられるのでしょう。
色即是空 空即是色
そうと頭ではわかっていても、悲しみは別のもので、薫はやはり涙を流さずにはいられないのでした。
次のお話はこちら・・・