令和源氏物語 宇治の恋華 第三十話
第三十話 昔がたり(三)
陽が高くなる前に八の宮のお邸を辞去した薫はごとごとと車に揺られて京へ向かっておりました。
その手には古びた錦の袋が握られています。
薫の脳裏には最後に弁と交わした言葉が甦りました。
「この世には知らずにいたほうがよいこともございましょう。しかしわたくしは柏木さまが薫さまの誕生を喜び、生い先を思いながら死の淵に在ったという事実を知っていただきたかったのでございます」
「いろいろと思うところはあるが、知らぬでは私は救われようもない。弁との出会いはまさに御仏の導きであったのだ。そなたには辛い役を担わせてしまったな」
薫は老女を労わりました。
「わたくしのことなどお気になさらないでくださいませ。それよりこれを」
そうして弁の御許が取り出したのがこの古びた裂の袋なのでした。
「柏木さまの絶筆が納められております。どのようにされるかは薫さまの御心にお任せいたします」
その小さな袋がずしりと重く感じられますが、まことの父の最期の言葉が納められているというのです。
「弁にはみっともない姿を見せたな」
「いいえ、致し方なきことでございましょう。御身の苦悩の深さ、この弁はよくわかっておりますとも」
涙と共に鬱屈していた思いの幾許かも流れたようで、この老女との出会いは必然であったのだと素直に感じる薫なのです。
「最後に聞きたいのだが、母は柏木の大納言を愛していたのでしょうか」
「わたくしにはわかりません。ただ柏木さまが亡くなられた時には涙を流されたとだけ伺いました」
たとえ人の道に背いたものであれ、そこに愛があり、望まれた誕生であったならばこの身も救われようものを。
嘆息する薫ですが、それを知る術は見あたらないのです。
弁の御許はこれまでこの秘密を守ってきたように、これから先も他言はしまいと固く誓いました。
「薫さま、人は祝福されて世に誕生するのですよ。それだけはお忘れにならないでくださいまし」
弁の御許の父は八の宮の北の方の弟でした。
そうした縁で八の宮のお邸には度々参上しておりましたが、柏木亡きあと長く京を離れていたのです。
戻ってきてからは遺言のこともあり、大臣家へ戻ろうかとも考えましたが、柏木と女三の宮の間を取り持ったことで生んだ悲劇がまざまざと思い出される所へ戻ることができませんでした。
弁の御許は亡き柏木の為を思って真実を伝えましたが、薫君には辛い真実であったでしょう。
老女は薫君の抱える闇を垣間見てしまいました。
愁いを帯びたあの瞳が忘れられず、せめて柏木の分まで満ち足りて幸せになって欲しいと願うばかりなのです。
京の邸に戻った薫はそっと自室に籠りあの袋を懐から取り出しました。
唐から渡来した格調高い浮線稜綾(ふせんりょう)という地紋が織り込まれた裂は色も褪せておりましたが、金糸の艶やかさは見事です。
その袋が肌身離さずに大切にされた証でしょう。
堅く縛られた組紐を解くと柏木と書かれた紙で封のしてある中袋が現われました。
亡父の手紙はしみだらけで端のほうは擦り切れておりましたが、手跡ははっきりと読み取れます。
“上”とだけ書かれているのは母・女三の宮へ宛てたものなのでしょう。
愛しい御方、私はもう生き永らえることも叶わぬようです。
御身に会いたい気持ちは日増しに強まるものの、どうにも今日を限りの命のようでそれもままならないことでございます。
御身が落飾されたと聞きました。
美しい御姿は瞼の裏に焼き付き、鮮やかに思い浮かびますが、あれやこれやと思ううちにも悲しく心が塞ぐ思いです。
目の前に心を背く君よりも
よそに別るる魂(たま)ぞかなしき
(この世に背を向けて出家されたあなたよりも、あなたに想いを残して黄泉へ旅立たねばならぬ私の方こそ悲しいのですよ)
そして手紙の端には薫を思う言葉が綴ってありました。
御子が無事に誕生したことを聞きましたのが、今ある私にとっては何よりの喜びでございます。
源氏の院はきっとこの子を大切にしてくださることでしょう。
命あらばそれとも見まし人知れぬ
岩根にとめし松の生末(おいすゑ)
(もしも私に命があればたとい人の子であるとしても、私の子をそっと見守ってゆけるのに)
弱々しく処々文字が震えて、鳥の足跡のような頼りなさは、まさに死力を尽くしてしたためたものなのでしょう。
父の最期の言葉を繰り返しなぞる間にも涙が溢れる薫なのです。
その手紙の他には母の手跡と思われる物が数枚納められておりました。
こちらは拙くなんとも素っ気ないものでしたが、父はこの手紙を拠り所として永らえていたのでしょう。
薫は参内する気も無くなり、母・女三の宮の元を訪れました。
母に父を愛していたのかと問うてやりたい、そんな憤懣さえも感じる君なのです。
しかし実際にお会いすると、すでにこの世の人ではなく、あどけない少女のように笑む母に如何してことの真偽を尋ねられましょう。
薫はこれより先もこの秘密は胸の奥深くに収めねばなるまいと誓ったのでした。
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