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令和源氏物語 宇治の恋華 第八十八話

 第八十八話 うしなった愛(二十一)
 
中君は匂宮がお越しになったと聞いても喜んで出迎えるという気分にはなれませんでした。
中君は大君が決定的に絶望した匂宮と夕霧・六の姫との婚姻の話は未だ知らずにおりましたが、姉が匂宮の夜離れを気に病んで身を削っていたことは間違いないのです。すべてとは言いませんが、姉の死の原因となった宮を快く迎えるほど鷹揚ではいられません。
「姫さま、宮さまがお待ちでいらっしゃいますわ」
そう急かす女房たちに毅然と言い放ちました。
「わたくしは気分がすぐれませんが、せっかくお越しくださったのにお会いしないでは失礼にあたりましょう。障子越しにてお話し致します」
中君のなさりようにあんまりと女房たちは深い溜息を吐きました。
もはや夫しか頼る者のない立場の弱い女人なれば意に染まずとも己を曲げて迎えるべきではありますが、中君は最愛の姉を亡くして生きることに虚しさをも感じております。
匂宮の勘気を蒙って打ち捨てられても致し方なし、と折れることができませんでした。
 
匂宮はようやく宇治を訪れることができたのに姫は顔さえも見せてくれないのを残念に思いました。
「どうしてお顔を見せてくれないのです。まさかけしてあなたを見捨てぬという誓いを交わしたことをお忘れになりましたか?」
中君はいらえなくじっと沈黙を続けております。
二月以上も放っておいたのですからよほど恨めしく思っているのかと心を解こうと優しく口説きますが、姉を亡くして世のこと、我が身の来し方行く末を考えてきた中君には匂宮の口当たりのよい言葉は不快以外の何ものでもありません。
 
この宮はこうしてまやかしのように言葉を飾って女人を絡め取り、その場を凌ぐのだ。
その慣れた調子に今までどれほどの女人が同じように籠絡されたことか。
 
 来しかたを思い出づるもはかなきを
       行く末かけて何頼むらん
(これまでの御身のなさりようを思うにつけても今ばかりは良いように言われる御身の言葉を本当のことと捉えられましょうか。何もわたくしに頼れるものなどございません)
 
中君が仄かに詠じたこの歌に匂宮は胸を衝かれる思いでした。
逢えずにいた時も気が揉めることでしたが、こうして目の前で言葉を交わしているのになかなか心が解けないことに深い溝が出来ていたことを知って愕然としているのです。
 
 ゆくすゑを短きものと思ひなば
    目の前にだに背かざらなん
(行く末が短いと諦めていらっしゃるのであれば殊更に今目の前でだけでも私のいうことを聞いてください)
 
身勝手で笑えもしない浅はかさよ。
中君は鼻白みました。
「わたくしは体調が優れませぬもので失礼させていただきます」
まったく決まり悪いこと、と匂宮は情けなくてうなだれました。
すげないあしらいを受けても匂宮は中君を見捨てようという気は露とも感じません。
他の女人にはない気骨のある精神性に惹かれずにはいられないのです。
先刻の弱々しい声を聞くとこの世を儚んでいられるのが感じられて愛おしさは増すばかり。
 
このようなわびしい地で長く放っておかれて、支え合ってきた姉も失ったとあれば恨みも深くなろう。
 
この夜匂宮は独り寝に明かしながら、女人の気持ちをしみじみと考えました。
夫を待ちわびる時間というものはこのようなあしらいを受けるよりもずっと心細く辛かろう。
物思いしながら明るい将来を夢見ることもできぬとは、なんともせんなきことよ。
やはり二条院に迎えて大切にしてあげたい、そう改めて思うのでした。


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