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紫がたり 令和源氏物語 第三百八十二話 柏木(十二)

 柏木(十二)

柏木の弟の左大弁の君か宰相の君かと思っていたところに、夕霧の大将とは当代一と言われる名門の若君なので女房などがお相手するには失礼にあたりましょう。
「御息所さま、如何いたしましょう?まさか大将の君がお越しになるなんて・・・」
女房達は浮き足立っております。
女二の宮樣も夕霧とは初めてお会いすることになりますので、些か動揺しておられます。
柏木からは親友と聞き及んでおりますが、夫は結婚してからも父君の邸に滞在することが儘あり、姫宮の一条邸に人を招くようなこともありませんでしたので、降嫁前と変わらずに外の方々と交わるということがありませんでした。
「皆さま、落ち着きなさい。見苦しくなく御座所を整えなさい。夕霧さまはわたくしがお相手致しましょう」
そうして女二の宮の御母・一条御息所が直々お会いすることとになりました。

現われた夕霧の君は精悍でありながら、愁いを含むような美しい佇まいで、義理の兄弟である柏木の君の喪に服して鈍色の装束を身に着けておられます。それがかえって容色を際立てるように艶めかしく、御簾から覗いていた女房たちは思わず息を呑みました。
渡る風に揺れる野の草花、夕霧はこの一条邸に亡き親友を探すように庭に目を移しました。
初めてこの邸を訪れたのですが、庭のそこかしこに柏木らしい趣向が凝らしてあります。草が伸びて野趣あふれる趣になっておりますが、虫の泣く頃には野原をそのまま持ってきたような風情が楽しめるでしょう。
ここにたしかに柏木がいたのだという温もりが残っているようで寂しさがこみ上げる夕霧ですが、こちらに暮らしておられる女二の宮と御息所こそ辛かろうとお気の毒に思われるのです。
懸けられた鈍色の御簾が重く、悲しみに沈む邸にはしめやかな香が仄かに薫るのがまたしみじみとしていて、さすが皇女であらせられる御方は一味違う、などと夕霧の好色心がそそられるものでありました。
一条御息所は上品な風情の婦人でいらっしゃるようで、直に聞く御声も御歳を召してはいらっしゃいますが、気品があり、夕霧の訪問を慎ましやかに喜ぶのが可愛らしく感じられます。
「御息所さま、女二の宮さまにおかれましてはたいそうなお力落としと思われますが、息災に暮らしていただきたいと柏木はいまわの際に私に漏らしました。ことに女二の宮さまの行く末を案じ、自分に準ずるように落飾などはされぬようにと切望されておりました。そして一番の友である私に自分に代わって宮さまをお世話するようにともおっしゃいまして・・・」
夕霧の生真面目で律儀な様子は噂通りである、と御息所はこの青年に好感を抱きました。
「ありがたいお言葉ですわ。わたくしなどはもう年をとって世の無常なども噛みしめてまいりましたが、女二の宮は柏木さまの早世に塞ぎこんでおられるのが、我が子ながら不憫で、不憫で・・・。かつて女二の宮を降嫁にと申し込まれた折に、わたくしはそれは反対いたしましてね。しかしながらお父君の太政大臣さまからもたっての願いということでお受けしたのですよ。今となってはやはりあの時お断りするべきであったと思わずにはいられません。それでも柏木さまが女二の宮を頼むと君にお心を懸けてくださったことはありがたいことですわ」
やんわりと卒のないいらえがまた淑女の嗜みか。
「柏木は女二の宮さまに申し訳ないとそればかり繰り返しておりましたよ」
夕霧の言葉に御息所はたまらずに涙を流されました。
なんとも心惹かれる尊き御方か。
しかしながら初めて来た未亡人の邸に長居しては失礼だと夕霧は早々に座を立ちました。
まったくこの御心痛な方々には懸ける言葉もない。
さぞかし柏木は心を遺したことであろう。
夕霧はそっと歌を詠みました。
 
時しあればかはらぬ色に匂ひけり
      片枝枯れにし宿の桜も
(片枝が枯れた桜でも春という時節がめぐってくれば再び花をつけるものです。どうか夫君を亡くした宮さまにも心穏やかに栄える時がこられますように)
 
御息所はすかさず歌を返されました。
 
この春は柳のめにぞ玉はぬく
   咲き散る花のゆくへ知らねば
(この春は柳の芽に玉が貫くように泣いて過ごすことになりましょう。亡き柏木の行方もわからないので)
 
御志深い気高いご様子であるなぁ、と夕霧は御簾の向こうの貴婦人を思い遣りました。
この方は身分こそ低い更衣であらせられましたが、才女と謳われた御方なのです。
この御方の御娘であられる女二の宮もこのように慎ましやかであるものか、などと場も弁えずに考えずにはいられない夕霧なのでした。

夕霧はその足で致仕太政大臣の邸にも見舞いに訪れました。
「夕霧か。柏木の葬儀では世話になったね」
致仕太政大臣はその容色も損なわれたように、鬢のほつれも気になさらないご様子です。昔からお洒落な御仁として女人達を魅了していらしたこの御方が、まさかこのように力を落されるとは・・・。
「義父上さま、もったいないお言葉でございます。雲居雁は子育てで忙しくお父上を訪れてお慰めできぬのを悔やんでおります。どうか孫の顔を見に我が邸へお出でくださいませ」
「それはうれしい申し出だが、どうにも出掛ける気分ではないのだよ」
そう虚ろに溜息をつかれる御姿がまたおいたわしい。
夕霧はこの柏木が生まれ育った邸がどこもかしこも墨色に染められているようで、ただただ悲しくなりました。
 
柏木よ、君の死を多くの人が悼んでいるよ。
どうして君は道ならぬ恋などに足をとられて命を削ってしまったのだ。
私も君が居なくてどれほど寂しいか・・・。
 もしもこの声が届くのであれば柏木に届いてほしいものだ。
夕霧はそうしてまた涙を堪えきれないのでした。

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