令和源氏物語 宇治の恋華 第二十八話
第二十八話 昔がたり(一)
十月に入り、公務が一段落したので、薫は再び宇治へと赴きました。
これからも足繁く通って姫君の心を解きほぐしたいという思いもありますが、弁の御許の仄めかしたことも気になるところです。
もろもろの理由はあってもやはり八の宮にお会いしたいという思いが強かったのかもしれません。
宇治への通い路は薫にとって心の平穏を保つ旅でもあるのです。
しばらくぶりにお会いした宮は温かく薫を迎えてくださいました。
山菜や獣肉などの山の幸でもてなされ、山寺から例の阿闍梨を呼び寄せてくださったので、それからはもう仏道に関する学問三昧です。
尊い阿闍梨は気さくにあれやこれやと質問に答えてくださり、宮との談義は興味深いものばかりなのでした。
「いやいや、薫中将の向学心には感服致しました。やはり優れた御方というのは御仏の法も呑み込みが早いですな」
阿闍梨は若く美しい新弟子の存在を心強く思召されたようで、始終目元が綻んで仕方がないご様子です。
「もしも私が優れていると仰せならば、それは阿闍梨のご教授がよいからです」
「いやいや、薫殿はまこと発想も柔軟で理知のある御方ですぞ」
そうおっしゃる八の宮もご自分の息子のように愛情をこめた眼差しで見つめられるのが、薫にはかつての記憶に見た源氏を思い返されて懐かしいのです。
深更になり、山風のすさぶ荒々しさに寝つけずにいた薫は楽を奏でて過ごそうと宮を誘いました。
もちろんその心裡には姫君たちの演奏を聞きたいという思いがあったからです。
「先日こちらに伺いました折、珍しい楽の音を聞きました。琵琶と筝の合奏でして、霧深い幽谷に漂う音色はこの世のものとは思われぬほどに妙なるものでございました」
「いや、お恥ずかしい。姫たちでしょうなぁ」
「あまりに神秘的で、京に戻ってもその音色が耳から離れませんでしたよ」
宮は琴と琵琶を運ばせて、調律してから、軽く爪弾きました。
「薫殿、お先に何か弾いて下さい」
琵琶を渡された薫は少しばかり弾きましたが、やはり大君には敵いそうもないと手を止めました。
「先日の響きには及びません。とても同じ楽器が奏でているとは思われず、この琵琶にも気の毒でありましょう」
「なんとも嬉しいことを言ってくださいますな。川の波音を相手に心赴くままに弾く姫たちですが、そこまで言われますとお聞かせせねば」
宮はさっそく女房を遣り、姫君たちに楽を奏でるよう勧めましたが、所望されて披露するほどの腕ではないと恐縮しました。
困った宮は正直に薫に詫びました。
「申し訳ない。このような所で生い立ちましたもので、礼儀も知りません」
「奥ゆかしい姫君たちと心得ておりますので、お気になさらずに」
そうして屈託なく笑う薫君には邪気がなく、もしやどちらかの姫を娶ってくだされば心残りもなくなるものを、と宮は本音を吐露しそうになりますが、この君を前にしては言えるはずもないでしょう。
「私はこのような分別の無い娘たちが心配でなりません。私の余命もそう長くはないと思われますが、私がいなくなったらどんなみじめな目に遭うだろうかと気が気でないのです」
薫は心底宮を気の毒に思いました。
「ご後見とまではいかなくとも、私の命があります限りは姫君たちのお世話をさせていただきとうございます」
「薫殿、ありがとう」
宮はほっと安堵の溜息をつかれると、心を鎮めて琴をお弾きになりました。
川辺に響き木霊するその楽声は凄みのあるうちにも優しい音色で、薫は目を閉じてじっと聞き入りました。
そして懐に忍ばせていた笛を取り出しました。
宮の琴にまつわるように静かに奏でる旋律は心地よく、こうした無言の内にも心を通わせることができるのが真の師弟のようにも思われます。
「薫殿の笛は澄んでおりますなぁ」
「宮さまの足元にも及びませぬが」
「なんの、妙手でございますよ」
そうして薫が愛用するその笛こそ、亡き柏木の大納言が愛でたあの名笛なのでした。
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