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令和源氏物語 宇治の恋華 第二十九話

 第二十九話 昔がたり(二)
 
夜が白々と明けても宇治の山里では濃い霧が光を遮り、幽谷はいまだ異界の体であるものの、日々の務めとて、八の宮は勤行の為に座をお立ちになりました。
霧の垂れこめた川面を眺める薫る中将の横顔は今にも糸がぷつりと切れてしまうのではないかというほどに思い詰めたものです。
 
私は恐ろしい。
真実を知ることが長年の願いであったが、いざその時を迎えるとなると人はこれほどに物怖じするものであろうか。
この朝霧はまるで私の心に懸かる霧のようだ。
意気地がないと己を自嘲する薫ですが、真実を知ることで自分がどう変わってゆくのかを何よりも惧れているのです。
 
薫がほうっと溜息をつくと、あの老女・弁の御許がやってきました。
「薫さま、お呼びいただきまして恐れ入ります」
「弁よ、近くへ寄ってくれ」
老女は衣擦れもさせずにしずしずと薫の御前に座しました。
「私は物心ついた時から生まれながらに罪を背負ってきたことを知っていたのだ。父と母の業をこの身に受けたのだ、とね」
遠くを眺めるような目でかつての自分を見つめる薫がいたわしくて弁の目からは涙が溢れておりました。
「すべてを話しておくれ」
そうしてまっすぐ見つめる薫の瞳には重ねてきた苦悩が滲み出ているのです。
「薫さまが察せられる通り、故・柏木の大納言さまが君の真の御父でいらっしゃいます」
薫は眉のひとつも動かさず、表情を変えませんでした。
「柏木さまは女三の宮さまが源氏の院とご結婚されるずっと以前より、宮さまをお慕いしておられました。しかし、宮さまご降嫁のお話が出た時にはまだ官位も低く、朱雀院さまの御意向もあり、柏木さまの御父・太政大臣さまの働きかけも空しく源氏の院へ嫁がれることが決まったのでございます。柏木さまはたいそうなお嘆きぶりでございましたよ」
弁は薫と柏木を重ねるように昔に思いを馳せておりました。
「たとえ叶わぬ恋と知っても、人を恋ふる想いを捨て去ることなどできましょうか。柏木さまは御自身が妻を迎えられても女三の宮さまのことを忘れることはできませんでした。いいえ、心の奥底に閉じ込めた恋心は忘れるどころか歳月を追うごとに君の心を蝕んだのです。快活で誰からも好かれる御方であったのに、人と会うのも拒むようになり、籠りきりで宮さまへの想いに苦しまれる日々を送っていらっしゃいました。薫さま、わたくしはずっと傍らで柏木さまの懊悩を目の当りにしておりました。罪へと足を踏み入れようとする心と己を引き留める理性のはざまで苦しまれ、命さえも削られんばかりのご様子に、陰ながら涙したことも一度や二度ではありません。そしてとうとう恋の炎に煽られて柏木さまは御心の赴くままに宮さまとお逢いになりました」
「そうして私が生まれたわけか」
薫の己を蔑むような笑みがあの頃の柏木の君と瓜二つで、弁の御許は胸を抉られるような痛みを感じずにはいられませんでした。
「父・・・源氏の院は母と柏木の君のことをご存知であったのだろうか」
あの御方を“父”とは呼べまい。
喉の奥が締め付けられるような息苦しさを堪える薫なのです。
「はい、知っていらっしゃいました。お文が院の御手に渡ったのだとか」
弁の言は薫を鋭く射抜き、様々な思いが錯綜して言葉を継ぐこともできませんでした。
 
さもあらん。
母が若い身空で出家した裏にはそうした事情があったかよ。
源氏の院は私をどのように思っていたのであろう。
見るたびに不快であったろうに。
私ならばとても他人の子を自分の子として育てることなどできまいよ。
 
「柏木さまは源氏の院を敬愛しておられました。院も柏木さまを可愛がっていられて、愛ゆえにその御方を裏切ることになった君はさらに深く苦悩されるようになったのです。二人の関係が院に知られた時などはそのまま自死するのではないかと思われるほどに思いつめていらっしゃいました。その頃からでしょうか、柏木さまは物も食べることができなくなり、徐々に衰弱していったのです」
「罪の意識がそうさせたのであろうな」
「それはなんとも。柏木さまは頭の上がらなくなった状態でも日々わたくしを近くに召して宮さまと御身のことを漏らされ、露が消えるように儚くなられ・・・」
薫はつと涙を流しました。
しかしそれが実の父の最期を哀れに思った為か、どうした心の働きかは己でもわからないのです。
「源氏の院にしてみれば私は憎い存在であっただろう。源氏の子としてのうのうとあらゆる恵みを享受してきた私はなんと罪深い者であろうか」
またひとしきり涙を流す美しい青年を老女は哀れに思いました。
「源氏の院は柏木さまを赦されたのだと思います。薫さまが今立派にあることこそ、その証であると思うのですよ」
「私にはそう思われない。皇女である母の名誉を守り、醜聞を覆い隠す為にやむなく私を己の子と認めてくださったのだよ。これからはあのお優しかった源氏の院の御顔を思い出すたびに私は罪に苛まれるのだ」
「薫さま、以前小侍従から聞きましたが、源氏の院は心から御身を慈しんでいられたということです。わたくしはその言葉に偽りはないと思います」
老女の言葉もただの慰めと耳に入らぬようで、ただ泣く君にどうしたら親の子を思う気持ちを伝えられるのであろう?
弁は不意に先日聞いた薫の笛の音を思い出しました。
「薫さまはいつも笛をお持ちですね」
「ああ。これこそ院から私へと兄の夕霧を通じて譲られたものだ。私はこの笛を吹くと院に護られているような気がして片時も身から離したことはない。今となってはこの笛を持つのも私には相応しくないな」
薫が懐から取り出した笛を見て、弁の御許はやはりと頷きました。
「これは『清雅』。院がこの笛を譲られたということが御身を心から慈しんだ証でございます。この笛は柏木さまのお持物でした。名はありませんでしたが由緒のある名笛で、柏木さまの楽の才を愛された当時の式部卿宮さまから贈られたものです。『清雅』というのは柏木さまがおつけになった名前です。源氏の院ほどの御方がその来歴をご存知ないはずもありません。柏木さまを赦されたからこの笛を君に譲られたのですよ。そして仮とはいえ父として真の愛情を御身に注がれたのでしょう」
「もう何もわからなくなってしまった。ただひとつ言えることは、私は存在さえも許されぬ者なのだ」
弁はこの薫の辛さのあまりに絞り出した言葉に小さな悲鳴をあげました。
「この世に生まれて存在の許されぬ者などおりません」
まるで御仏の言葉を聞いたように薫には思われましたが、今はとて、ただ波打つ心を抑えられずに慟哭するのでした。
宇治川の波音が迫り、嘆く声を掻き消す山里はいまだ霧深い明けのうち、薫はこのまま霧に紛れて消えてしまいたいと願うのでした。

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