見出し画像

令和源氏物語 宇治の恋華 第六十九話

 第六十九話  うしなった愛(二)
 
匂宮は中君を気に入ったようですが、中君の心中はというとやはりそう簡単に割りきれるものではありません。
忍んできた男が薫君ではなく匂宮であったというのも衝撃なのでした。
中君が塞ぎこんでいると大君がそっと御座所にやって来ました。
姉はちょっと困ったように眉を顰めて悲しげです。
「言い訳がましいようだけれど匂宮さまが忍んできたことはわたくしのあずかり知らぬところだったのよ。てっきり薫さまがあなたと結婚するものだと考えていたの」
中君は姉が薫君を引きこもうとしていたことにも驚きを隠せません。
「どうしてわたくしに何も仰ってくださらなかったの?薫さまと結婚するにしてもわたくしの気持ちを無視なさるなんてあんまりだわ」
「そうね。でもあなたまでわたくしと同じく独身を貫くと言っていたから薫さまと自然に逢われた方がよいと思ったのよ。薫さまは無理強いなさる御方ではないし」
「それが結局は匂宮さまが忍んでこられたということなのね」
中君は両手で顔を覆い、うなだれました。
あまりの人生の急転を受け入れることができないのです。
「ねぇ、こうなったからには匂宮さまとあなたは前世の縁で結ばれていたとしか思えないのよ。運命を受け入れましょう。わたくしはいつでもあなたの幸せが一番と考えてきたのですもの。それだけはわかってくれるでしょう」
「ええ、お姉さま」
大君は妹の豊かで黒々とした髪を丁寧に梳き始めました。
中君はじっと昔から慈しんでくれた姉の優しさを思い出し、姉にかぎって自分を不幸にしようとするはずもない、と改めて信じられるのです。
匂宮さまの妻になることが己の運命であったのかもしれぬ、薫さまとは結ばれる縁(えにし)ではなかったのだわ、とそうぼんやりと考えるようになりました。
そしてもしも自分が匂宮さまに打ち捨てられるようなことになったならばこの姉は誰よりも悲しむであろう、とまだ見ぬ先の不安をも思われるのです。
実は姉の大君よりも才気煥発で洞察力に優れているのはこの中君のほうなのでした。
中君は風雪に耐える竹のようなしなやかさも兼ね備えた芯の強い女人なのです。
 
妹にはああ言ったものの匂宮を望んでいなかった大君はやはり心中穏やかではいられません。
今となっては薫君の気持ちも察せられるように思うのです。
祝い事らしく邸を飾り付けさせながら、大君は弁の御許に語りかけました。
「思うようにはいかないものねぇ。薫さまは今宵もお越しになるかしら」
「なぜ薫さまがお越しになるのですか?婿君は匂宮さまですのに」
「だって縁を結んだのは薫さまですもの。お供としていらっしゃるのではないかしら?」
「薫さまは帝の家臣であって、匂宮さまの家来ではありませんわ。それにもうこちらへはそうそう足を向けられませんでしょう」
「まぁ、何故?」
「そういう生真面目な御方でございますから。大君さまの意向に添わなかったというだけで身を慎まれるような君ですわ」
弁の御許は変わらず虫のよい考え方をなさる大君にぴしゃりと応酬しました。
こうした時ばかり薫君を頼ろうというのが見え見えで、甘えた態度が御許には気に入らないのです。
大君は自身の仕打ちがどれほど薫君を傷つけたのかもわからずにいられるほど世間知らずなもので、御許のあてこすりにも今ひとつぴんときません。
こうした世間の常識とはずれた姫君なれば薫君の苦悩は尽きることがないのです。
 
そうこうしているうちに陽は落ちて、匂宮は早々に宇治の山荘を訪れました。
さきほどまで認められなかったものの、こうして中君を想ってお越しになるとやはり安堵する大君なのです。それに初めてまじまじと見るその御姿はやはり高貴で、薫君と並び称されるほどの美貌は噂に違わぬものでした。
 
このまま中君が幸せになりますように。
お父様、どうか見守ってくださいまし。
そう大君は仏前で祈りを奉げるのでした。
 
 
匂宮が新妻恋しと宇治を訪れると、迎えるように篝火が焚かれ、前夜とは違って山荘は漆黒のもと荘厳に浮かび上がる宮殿のように思われました。
中君の寝所へと続く廊には魔除けの薬玉が等間隔に飾られ、匂宮は愛しい女君がその先に居ると感じると一歩ごとに胸がときめくのです。
昨夜はまさか自分が忍んでくるとも考え及ばぬ初心な乙女のおろおろと度を失いながら狼狽する姿が女人を見慣れた宮には珍しく可憐に思われて愛が募ったものですが、今宵は新妻らしく夫を迎えるよう美しく化粧を施された中君が恥らいながら伏し目がちに控えるのを新たな蕾が芽生えたように思われる宮なのです。
その愛しい人が視界に入るともうわびしい水音も流れ込む隙間風も意識の外にあるように、ただ愛だけがじんわりと湧き上がってくるのでした。
「はやくあなたにお逢いしたくて陽が暮れることばかりを考えておりましたよ」
「まぁ、宮さまったら」
そのように頬を染めて恥じらう中君の初々しいこと。
よくもこのような麗しい女人が長年山に隠れ住んでいたものだ、と匂宮は己が運命の縁の不思議さを禁じ得ません。
「きっとあなたと私が出逢うよう山神さまがあなたをこの地に留められたのですね。そしてずっと守ってこられたのだ」
「わたくしはそんなたいそうな者ではございませんわ。ただの田舎娘ですのよ」
そうして首を傾けるとさらさらとこぼれ落ちる豊かな髪が美しい。
「私とてあなたを前にすればただの男ですよ。宇治の山里にあるこの身はただあなたに恋する樵(きこり)に等しいのです。そんな私でも愛してくださる慈悲を示してください、姫神よ」
「あなたが本当に樵であったならば、気を張らずにお逢いできますのに」
「私とあなたの間になんの隔てをなさるというのか」
まるで包み込むように細身の姫を抱いた匂宮が熱く囁くも、手弱女は感情を圧し留めるようにしなやかな抵抗を見せる。
「わたくしは自分が取るに足らぬ無知な娘だと存じておりますわ。なんの取り柄もなく、京の尊い姫君たちを見慣れた御身には物足りぬでしょう。それが恥ずかしいのですわ」
その気取らぬ素直さ、はにかむ目元はえも言われず匂やかです。
「正直言いますと私はこれまで多くの女人を知ってきました。しかし自分だけの腕に閉じ込めたいと思ったのはあなただけです。あなたにも私を愛して欲しい、これが今私の思う率直な処です。私はどうやらあなたに恋をしてしまったみたいなのですよ」
中君はその真摯な瞳にほだされて柔らかく身を委ねるのでした。
 
晩秋に向かう秋風は冴えて雲を彼方に押し流す。
月影の元遠くに聞こえるのは雌を乞うる雄鹿の声か。
ほどなくしてそれに応える気高い声が山間に響くのをこちらの夫婦も睦まじく聞くのでした。

次のお話はこちら・・・


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?