紫がたり 令和源氏物語 第三百七十話 若菜・下(三十六)
若菜・下(三十六)
柏木は例の試楽以来、床についたきり頭も持ち上げられぬほどの病に臥してしまいました。
ふと意識が戻るといつでもあの源氏の厳しい一瞥が脳裏に甦り、その眼差しに射抜かれたように気力が萎えて体から力が抜けてゆくのです。
青年は自分が失ったものの大きさを思い知らされておりました。
六条院に出向き仄かな希望が芽生えたことがまた酷でした。
捨てたと思っていたものは以前ならば何も考えずに享受していたものですが、今はそれを望める身ではないと改めて知ると悔やまれて、地の底に突き落とされたような惨めさでいっぱいになるのです。
そして一度零れた水はけして元の器に戻ることはないのでした。
柏木がこのように日々弱ってゆくのを父である致仕太政大臣と母である北の方はそのままには出来ませんでした。
柏木は一条にある女二の宮の邸で寝付いておりましたが、それを邸に引き取りねんごろに看病したいと切望されたのです。
いよいよ一条邸を離れるにあたっては、柏木は女二の宮に申し訳なく、それまで顧みなかったことを悔やんでおりました。
女二の宮はあれからずっと付き添って看病を続けてこられたのです。
美しくもそのほっそりとした寂しげな御顔を見るにつけても後悔の涙が縷々と溢れる柏木です。
「あなたは私をさぞ薄情だと恨まれたことでしょうね。なんだか気が塞いであなたを顧みる余裕もなかったのです。思えばこのように長くない命であるから変調をきたしていたのでしょうか」
柏木は宮への関心が薄かったことを病の為と取り繕うと、宮もそうであったかと己を卑下していた御心も幾分か和らぐようで、これは勝手な事情で宮を苦しめた柏木の少しなりともの贖罪による方便でしょう。
しかしながら柏木はこの時しっかりと女二の宮という御方を見ました。
しっとりと落ち着いた美しくもたおやかな女人です。
あの女三の宮を可憐だと思っていたものが今ではその稚拙さゆえのものであったと気付き、どうしてこの人の楚々とした魅力に気づかなんだか。
「私はあなたを遺して逝くのがどうにも気懸りでなりません。もしも私が危篤に陥ったならばせめてもう一目あなたにお会いしたい。必ず父の邸にいらしてください」
そう言って涙を堪えきれないので、宮もさめざめと涙を流され、几帳の陰で話を伺ってたおられた宮の御母・一条御息所も涙を滲ませておられるのでした。
冷たい夫を恨んだこともあった宮ですが、この期に及んでようやく心が通じ合ったようで、その時には別れとはせつない縁としか言いようがありません。
致仕太政大臣は高名な医学博士に柏木を診せましたがその病状ははっきりとしないものでした。高僧を招聘して加持祈祷を毎日のようにさせますが、柏木はものも食べずに日に日にと弱ってゆくのです。
柏木がこのように重篤な病に倒れたという噂は広まり、今上を始め朱雀院、冷泉院からも手厚くお見舞いを送られ、上達部たちは代わる代わる柏木の病床を見舞いにやってきました。
その中にはもちろん夕霧も含まれております。
夕霧はあの試楽の日の柏木の笑顔を思い返すたびにこの状況が悪い夢だとしか考えられません。
さすがの源氏も驚きつつ、本当に命が危ういのであれば残念であると思われるので、鄭重な見舞いを重ねて父である致仕太政大臣にも届けさせるのでした。
このように柏木の病で世も暗く沈みがちですが、これ以上朱雀院の御賀を延ばすわけにはいかないと、押し迫った十二月二十五日に女三の宮主催の儀が行われました。
こうした世の様子であるので、華々しくはできません。
五十の御賀ということで五十寺の御誦経が行われました。そして朱雀院がおられる仁和寺の摩訶毘盧遮那仏の御供養が荘厳に執り行われるなか、源氏は恋人のことを聞いて女三の宮も御心を痛めておられるのだろうか、とその表情の乏しい横顔を慮るのでした。
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