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令和源氏物語 宇治の恋華 第五十三話

 第五十三話 恋車(十五)
 
「人は一人で生まれて死にゆくのも一人という。しかし生きることは愛し愛されるものと分かち合うことができると思うのだよ。私にはこれまで誰もいなかった。兄弟もおらず、親も早くに亡くし、そうして孤独に甘んじるのが私の罪を償う術なのだと諦めてきた。思えば御仏に心を寄せたのは孤独に耐えられなかったからかもしれぬ」
遠くを見つめるような薫の横顔は苦渋にまみれて、弁の御許は言葉に詰まりました。
「やはり私が半身を望むのは分に過ぎたことであるという戒めか」
「そのようなことがあるはずはありません」
君の重すぎる出生の秘密を知る御許には、考える以上にそのトラウマが薫を苦しめ続けてきたのだと知りました。
世の人々は当代一の貴公子と言われる尊い君に強い憧れを抱き、羨む者も多かろう。
しかしこの貴人が人知れずその存在を疑いながら苦悩しているとは思うまい。
「私はただ一人の愛する人が欲しい。穏やかにほんの朝夕の様子を語らいながら、信じあえる人がいてくれればそれでよい。大君とならばそうした絆を築けそうに思うのだよ。それは見目形ではない、魂の引き合うことなのだ。妹といえどその相手に代わることはない。しかし私は大君の心が解けなければ無理強いはすまいと考えている。大君が私をお嫌いならば潔く身を引こう」
これが最後と薫は思い詰めている。
濁りの無い一途な告白は、まっすぐと弁の御許の胸に沁み込みました。
君の純粋な想いを前にしては大君の乙女の意地など如何ばかりの価値もあろうか、と弁の御許は大君を得る手助けをしようと決意したのです。
「薫さまのお気持ちはよくわかりました。大君さまにはわたくしが伝えましょう」
「弁、ありがとう」
薫はそのまま山の阿闍梨の元へと向かいました。
 
陽は傾きはじめ、蜻蛉が夕陽を吸ったような鮮やかな色を見せつけております。
はや山里には秋の気配が訪れているよ、とその哀れさに、時の流れの速さを感じずにはいられません。
道々の薄には烏瓜が絡みついて色づき始めておりました。
それがわびしくて、こうしたつれづれの想いも大君と分かち合いたいものよ、と薫はせつなさに目を潤ませるのでした。
 
 
大君は薫のよそよそしい態度を目の当たりにして心がさざめき、落ち着かずにおりました。
以前弁の御許に言われた言葉が脳裏に甦ると暗く沈んだ気持ちに苛まれるのです。
 
もしもこのまま薫君に見捨てられたら自分たちはどうなってしまうのであろう?
 
拒んだのは大君自身であるのにこれから先も先刻のように他人行儀に振る舞われるのは寂しく思われるのです。
素直に慕う心を認めればよいものをそれができない初心な乙女。
大君には薫君はまぶしい雲の上の存在です。
愛に不慣れな乙女は恐れるばかりで、固く心を閉ざしてしまっております。
 
やはり薫君には中君をさしあげよう。
そうすればこの山里は見捨てられることもなく、中君は幸せになれるに違いない。
 
そのように己を偽る大君を賢しいというのか、愚かというのか。
大君は弁の御許を通じて薫君を動かそうと考えました。
さて大君に呼ばれた御許は如何にして姫の頑な心を解こうかと頭を悩ませております。
男女の愛を知らぬ姫にどうしてそのことを教えたらよいものか、なんの方策も思いつかぬのです。
「大君さま、お呼びでしょうか」
「ええ。薫さまは阿闍梨の元へ行かれたの?」
「はい。心をこめて法要を勤めたいと仰せになっておられました」
互いに本当に聞きたいことをなかなか言いだせぬもので、訪れる沈黙も息苦しさを禁じ得ません。
「弁は薫さまと以前からのお知り合いなのね」
「縁がございまして、わたくしの方は薫さまを存じておりました」
薫君のまことの父で弁の乳兄妹である柏木大納言のことを明かすことはできません。
もしも大君が薫君の伴侶となるのであれば、あるいは漏らしてもよいかもしれませんが、今はその時ではないのです。
それ以上のことを話そうとしない弁を見て、大君はこの老女と薫君との間にあるほだしさえなんとも妬ましく感じられるのです。
それは初めて覚える嫉妬に違いないのでした。
「大君さま、薫さまはあなたをお望みなのですよ」
「わたくしはやはり中君を薫さまに娶っていただきたいわ」
「薫さまは誠実な御方でございます。匂宮さまが中君に懸想するのをどうして横からさらうようなことが出来ましょうか。大君さまには薫さま、中君さまには匂宮さま、これほどのご縁は二親が揃って奔走する貴族の家にもなかなかないご幸運であるとわたくしには思われますが」
「それはわたくしに結婚を望む意志があればそうでしょうが、わたくしはこの山で独り身を通すと前から決めているの。それは亡き父宮を俗世に引き留めた罪障を拭う為のものよ。でも中君だけにはそうした業を背負わせたくはありません」
「そうであれば、もしも大君さまに薫さまを想うお気持ちがないのであればそのような回りくどいことはおやめになってください。君は潔く身を引かれるでしょう。そうして真の運命と巡り会われた方が薫さまにとってもよいとは考えられませぬか?他の姫を娶られても君はけして大君さまも中君さまもお見捨てになりませんわ」
それは薫君が別の女人と添うということ。
それは耐えられない大君なのです。
「中君とわたくしは身は二つだけれども心はひとつ。わたくしの心も添えて中君を薫さまに差し上げたいのよ。わかってちょうだい」
なんとも自分勝手な言いようか。
この姫は愛し愛されることの尊さを、どれほど幸せであることかを知らぬ、と弁の御許は頭を振りました。

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