令和源氏物語 宇治の恋華 第三十二話
第三十二話 会うは別れ(二)
二月の二十日過ぎ、匂宮は予定通りに初瀬へと旅立ちました。
数多の公卿や上達部が従う道行きはにぎにぎしく、新春の山の空気はまだ鋭い冷気を帯びているものの、新緑が芽吹く様子は春の訪れを感じずにはいられません。
普段宮中で窮屈な思いをしていた匂宮は解放されたように清々しい気持ちで初瀬の観音さまに詣でたのでした。
そうして心を躍らせながら宇治へと入ったのです。
夕霧の大臣の山荘は亡き源氏の院ゆかりのもので数寄を凝らした別荘です。
薫はこの山荘で匂宮を迎えました。
「宮さま、観音さまへは無事にお参りできたようですね」
「薫、お前も来てくれたか。ん?後ろにいるのは右大弁に侍従の宰相、権中将、頭少将、蔵人の兵衛の佐。まさか親父殿(夕霧)は来ておるまいな?」
この若者たちは夕霧の若君たちなので、匂宮は苦手な大臣も一緒かと問うたのです。この問いには右大弁(長男)が応えました。
「生憎父は方角が悪うございまして本日は遠慮させていただきました」
「生憎どころかありがたい。いや君たちには申し訳ないが、父君はあの通り生真面目でいらっしゃるだろう?背筋を伸ばしてお会いしなければいけないような気がして、堅苦しくて叶わんのだ」
「宮さまのおっしゃることはよくわかりますよ。父は子である私達にもそれはもう厳しゅうございます。我らも今日ばかりは羽が伸ばせると楽しみにやって参りました」
そういう侍従の宰相(次男)とも気心の知れた仲なのです。
「ちょっと休むが月が昇る頃には楽でもしようか」
「それはようございますね。宇治川に響く音色は格別でございましょう」
目を合わせた匂宮と薫は意味ありげに笑みを交わしました。
山荘には若い公達が楽しめるようにと碁や双六、弾棊(たぎ=石はじき)の盤なども用意してあったので、酒を片手にそれぞれが思い思いに寛いで月の昇る頃合いを待つのでした。
さて数刻が過ぎ、月が華やかにさし昇ると宴のはじまりです。
山のものなどが膳に盛られ、酒が振る舞われると誰ともなく和琴を爪弾き始めました。
続くように筝の琴と篳篥(ひちりき)が混じりあうと、薫の『清雅』が夜気を裂くように響き渡る。
川のせせらぎが楽の音を引き立てるようで京にある時とはまた違った趣なのです。
川を隔てた八の宮はこの管弦の音色を姫君たちと聞いておりました。
「まるで宮中にあった頃のようだ。あの頃は毎日のように理由をつけては宴を開いていたものだ。月が美しければそれを愛でながら、花が香る時にはそれを、鳥がさえずればそれに競うようにとね。おや、この笛の音は薫君の手だね」
「薫さまの笛は穢れの無い澄んだ響きですわね、お父さま」
大君は目を閉じてその音色に耳を傾けておりました。
「うむ、音色というものは不思議と奏者の人となりが表われるものなのだ。薫君らしい無垢な響きであるよ」
八の宮は宮中にあった華々しい日々を思い返すにつけてもこの姫君たちが不憫でなりません。
このような山里で朽ちさせるには惜しい器量なのです。
薫君が婿となってくれれば、と心底願いますが、それはやはり言いだし辛く、君が無理だからと他の浮薄な貴公子などをどうして婿と迎えられようかと思い悩むうちにも短い春の夜は更けてゆくのです。
「さてもまぁ、このような管弦などもしないで過ごしてきた年月の長さを思うとわびしさが込み上げる」
却って山里の寂しい暮らしを思い知らされた宮はつと涙を流されたのでした。
しらじらと夜が明けて、匂宮は見渡す山里の景色の美しさに見入っておりました。
霞がかかる山の端に散る桜もあれば今咲きそめる桜もあり、川面に映る柳はそよそよとさやけく風に靡くのも京では見られぬもので、このままここをすぐに発つには惜しいほど。
何より対岸に住まう橋姫たちとどうにか文でも交わせぬものかと心が引き留められるのです。
薫もこのまま挨拶もせずに戻るのを躊躇われましたが、一人で一行を抜けるわけにゆかず、せめて宮へ手紙をしたためようかと逡巡している処に一艘の舟が水面を滑るようにやって来ました。
「薫る中将さまはおられませぬか?」
「私が薫だが、もしや八の宮さまからの遣いか?」
「さようでございます。文をお持ちいたしました」
薫は八の宮が自分と同じように思っていてくださったことが嬉しくてなりませんでした。
「薫、早く文を開いてみよ」
匂宮も想いを寄せている方からのものと心が浮きたつようであります。
山風に霞吹きとく聲(こゑ)はあれど
隔てて見ゆる遠(をち)の白浪
(山風に乗って霞の間を漏れてあなたの笛の音が聞こえましたが、遠く白波が私達の間を隔てているので恨めしく感じておりました)
「上品な草仮名を書かれる御仁だなぁ。これは薫が出向かねばなるまいよ。この返事は私がしたためるからあちらへお持ちしておくれ」
匂宮はご自分が渡られるのは親王らしからぬ、そこいらの軽々しい公達と一緒にされては印象も悪かろうと矜持を高く構えておりますが、本心は薫と共にあちらへ向かいたくて仕方がないのです。
遠近(をちこち)の汀(みぎわ)に浪はへだつとも
なほ吹き通へ宇治の川風
(宇治川のそちらとこちらで波が立ち、私達の間が隔てられてもそちらの汀から吹き渡って来よ、宇治の川風よ。隔てなく親しみをお持ちください)
薫は楽を得意とする者数人を誘って舟に乗りこみました。
「ただ舟で渡るのも興が乏しい。楽を奏でながら行こうではないか」
「ではこの場らしく『酣酔楽(かんすいらく)』では如何?」
「それはよいな」
「そうしよう」
薫の提案に一同は楽を奏で始めました。
「なんとも雅な。八の宮さまも喜ばれますぞ」
船頭は顔をほころばせると慣れた手つきで棹をさしました。
八の宮はといいますと、楽の音が徐々に近づいてくるのを嬉しく思い、貴公子達をもてなそうとすでに支度は済ませてあるのでした。
楽を好む方々へのおもてなしと言えばやはり楽でお応えすること、それ以外にはありません。
舟から奏でられる『酣酔楽』に添うように筝を微かに奏でられ、それだけで楽を愛好する者同士心が通じ合うのは不思議なものです。
橋のたもとまで迎えに出ていらした八の宮を見て、若い貴公子達はその清らかな御姿に感銘を受けました。
「あの御方が八の宮さまですか」
「まさに尊い御仁でありますなぁ」
貴公子達はすぐさま宮の楽の音に心酔したようです。
こちらの山荘は夕霧の大臣のものと違い簡素で網代屏風など無造作に置かれているのが珍しく、山の雰囲気そのままを映すように楽が始まりました。
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