紫がたり 令和源氏物語 第四百五話 夕霧(八)
夕霧(八)
物の怪に悩まされていた御息所は翌日の昼過ぎには落ち着かれました。
ずっと陀羅尼を読んでおられた阿闍梨も御息所の御顔に生気が戻ったのを見てとり、安堵で胸を撫で下ろしました。
「大日如来さまの御加護の賜物ですな。執念深い悪霊のようですが、じきに御身から離れることでしょう。御身の罪障も浄められるというものです」
この律師は長く俗世を離れて厳しい修行を積まれ、日々こうした邪なものと対峙していられるせいでしょうか、仏道に勤しみ罪を雪ぐのは人としての務めとばかりに決めてかかる御仁なので、些か説教じみて人を咎める口調なのが玉に疵のようです。
御息所が起き上がれるまでご回復なられるとすぐにまた気になるところなどを述べずにはいられなくなる性分なのです。
「そういえば、右大将の君はいつから女二の宮さまに通われているのですか?」
なんと阿闍梨は帰ってゆく夕霧の姿を目撃していたのでした。
御息所はどうした勘違いをなさっていることか、と笑っていらっしゃる。
「そのようなことはございませんわ。大将は亡き柏木の君の無二の親友でいらして、その御遺言を律儀に守ってくださっているのです。昨日も京からはるばるお見舞いにお越しくださいましたのよ」
「私に隠し事をなさらないでもよろしいでしょう。今朝後夜の勤行に参りましたら、西の妻戸から大将の君がお出でになったのですよ。私はこのご縁はあまり感心できないように思われますので、さしでがましいとは思いますが申し上げているのです。そもそも女人というのは生まれながらにして罪障が深い存在といわれておりますし、もしもご本妻との間に諍いなど起きれば、姫宮といえど、大臣家の姫君には叶わぬと思うのですよ。あちらには子供も多くおありになることですし、尊き宮さまが愛人に成り下がるなどまた罪障を重ねるように思われまして」
「それはまったく事実とは違いますのよ。大将はわたくしがひと心地つくのをお待ちになっているうちに霧が深くなって身動きがとれなくなり、やむを得ずこちらに泊まられたと女房たちは申しておりました。あの生真面目な君に限ってそのようなことはありますまい」
「それならばよろしいのだが」
阿闍梨はそう言い残して御座所を去りました。
御息所はきっぱりと否定をしたものの、何やら胸騒ぎを覚えられました。
それは時折垣間見られる夕霧の宮への慕情が、もしや何か間違いを起こしたのではないか、と。
「小少将の君をこちらに呼びなさい」
御息所は一番事情を把握していそうな女房を近くに召しました。
「昨晩夕霧の大将がこちらに泊まられたと聞きましたが、まさか宮との間になにかあったのではないでしょうね」
小少将の君は誰が余計な事を御息所に吹き込んだのかとぎょっとしましたが、宮は潔白なので怯みません。
「なにかあったか、などと。宮さまをお疑いなのですか?」
「何分女人ばかりなので殿方が本気になれば他愛のないことでしょう」
小少将の君は宮をお気の毒に思いながら昨晩の様子をお話しました。
「大将さまは宮さまをお慕いしているのですわ。昨晩はその胸の裡をせつせつと伝えられたのです。もちろんそれだけで間の障子などは閉められておりましたし、ご心配されるようなことはありませんでしたのよ。宮さまはたいそう驚かれまして、ご気分を悪くされておられます」
この女房がそういうからには事実はそうであったに違いありません。
しかしながら大将の君が宮の御座所から忍んで帰るところを人に見られてしまったのです。
「おお、なんとお可哀そうな宮であろう。口さがない人たちが大将の御姿を見てしまったからには世間には噂が流れることになるでしょう。本意ではないものを、おいたわしい」
御息所は愛娘に降りかかった災難に胸を痛めて涙を流されるのでした。
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