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紫がたり 令和源氏物語 第三百二十二話 若菜・上(十六)

 若菜・上(十六)
 
その日、源氏はそわそわと落ち着かぬ様子でした。
女人に逢いに行くに違いない、と勘の良い紫の上には察せられましたが、そ知らぬ風を装っております。
「二条の末摘花の姫が長らくご病気で伏せっているのだが、女三の宮の輿入れなどで立て込んでお見舞いにも行けなかったもので、ちょっと出かけてきます」
そういって念入りに身だしなみを整えるのを紫の上は冷ややかな目で見つめておりました。
二条ということは朧月夜の尚侍であろう、とおのずと知れるものです。
しかし紫の上はもう煩わされることはありませんでした。
出家はしていなくともすでに心は御仏の弟子となっていたからです。
仏門に帰依するということはその身を清らかに保っておかなければなりません。
源氏がそうして他の女人を渡り歩くことで紫の上の心はより御仏に近いところにあることができるので、今はもう源氏がどこへ通おうとそれは瑣末なことなのでした。
むしろこのまま出家を願い出たいところですが、今の源氏はそれを許してはくれないでしょう。
ならばせめて心だけは自由に御仏の側にあるように、と願うのです。
そんな紫の上の心を知らず一日中装束に薫物などをさせている源氏の姿は滑稽以外の何ものでもありません。
まるで若い頃に戻ったように忍び歩きを楽しもうというのか、側近四、五人ばかりを従えて粗末な車で出かけて行ったのでした。
紫の上が何とも情けないことと、侮蔑の一瞥を下したのを源氏はご存知ではない。
 
源氏の訪れを聞いた朧月夜の姫はまたもや驚きました。
「和泉前守はどのように源氏の君にお返事をなさったのか。これ以上わたくしに恥をかかせないで下さい」
朧月夜の姫は和泉前守を強く詰りましたが、色事の案内に通じたこの人はそのようなことでは動じません。
「何にしろここで追い返すなど無風流にもほどがありましょう。障りなくおもてなしをしてお帰りいただくというのが貴婦人の対応ですよ」
などと、心憎いことを言うのです。
和泉前守はことの成り行きを楽しんでいるようでした。
昔大事件を引き起こしたこの二人の再びの邂逅がどのような実を結ぶのか。
男と女の情のゆらめきの危うさ、人の生き様などを見極めようという不敵ささえ感じられます。
朧月夜の姫は仕方なく障子を隔てて源氏を迎える座をしつらえさせました。
もちろん取次という形で女房が控えております。
 
二人が離されてもうどれだけの歳月が経ったのでしょう。
朧月夜の姫はその頃に引き戻されたような胸の高鳴りを覚えましたが、鏡に映ったその姿は残酷にも年月を刻んでおります。
やはり逢わないほうがよいのだ、と理性が姫に囁きかけるのでした。
 
源氏の声はあの頃と変わっていないように若々しく姫には思われました。
その言葉は優しく穏やかに、密かな熱を帯びている、そう思うと初めて会ったあの夜を思い出さずにはいられません。
源氏も同じ気持であったのでしょうか。
「せめてお声を直にお聞かせ下さい。もう少し近くに」
姫は己の心におののきながら溜息交じりに膝をにじりながら障子の側に寄りました。
その気配を感じて源氏はやはりこの人は情の強い女ではない、と懐かしさが込み上げるのです。
「子供っぽいつれない仕打ちなさる。あなたをずっと想い続けた私の心を知らぬはずがないでしょうに」
折しも庭の鴛鴦がせつなく泣いておりました。
 
年月をなかに隔てて逢坂も
   さもせきがたく落つる涙か
(長い年月を越えてようやく会えたというのにこの障子に隔てられて逢うことができないので、堰き止めることも出来ないほどに涙が溢れます)
 
涙のみせきとめがたき清水にて
     行きあふ道は早く絶えにき
(わたくしとて溢るる涙は堰き止められない清水のようですが、逢う道はとうの昔に絶えたのです)
 
そうして涙を流す姫の心は揺れました。
この人を須磨へ流したのはわたくしの罪、それはそもそもこの君を愛していたから。
そう思うとあの頃の想いが甦るようで、姫は躊躇いながらも障子の掛け金に手を伸ばしたのです。

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