紫がたり 令和源氏物語 第三百三十一話 若菜・上(二十五)
若菜・上(二十五)
入道は明石の上が生まれてから長年たて続けた願文を大きな沈の箱に収めて娘へと贈りました。
その数やたいそうな量になります。
わたくしとちぃ姫を思って父上はこれほどの誓願をなされたのか、と一枚一枚を見ても涙が溢れてくる明石の上です。
この箱は女御にお渡ししなければならぬものですが、中宮に冊立された暁には必ず差し上げよう、一度はそう心に決めましたが、ここのところ世の無常を感じる明石の上はいつ何時自分も儚くなるかもしれぬ、と思い直しました。
ある夕暮れ、紫の上が若宮をあちらの御座所へ連れて行かれた時に女御のまわりに誰もいないことがありました。
明石の上は躊躇いながらも女御の御前にこの沈の箱を差し出しました。
「こちらはかの入道からのものです。女御が中宮になられた折にでもと思いましたが、人の世は儚いものでございます。もしも仮にわたくしが死の床にあっても、身分柄御身とお目にかかれるとは限りませんので、今この箱を差し上げようと思います」
「この中にはいったいなにが?」
「わかりづらいひどい手跡ではありますが、入道が長年たて続けた願文が数多納められております。いつかこの願ほどきをなさっていただきたいと持参致しました」
女御が箱を開けるとそこにはつい最近のものから、古びて紙の色が変わったようなものまでみっしりと納められているのでした。
新しめのどの一枚を開いてもそこには母である明石の上と女御のためを祈った言葉が綴られているのです。
わたくしの知らぬところでこうして祖父が幸せを祈ってくれていたのか、そう思うと女御はうれしくて、ありがたくて胸が熱くなり、涙が溢れてくるのを止められません。
明石の上は娘がこのように人の心を汲み取る情け深い女人に成長したことをしみじみと感慨深く、これも紫の上のおかげとありがたく思いました。
そこへ源氏がふらりとやってきました。
「おや?何やら気になりますねぇ。その箱は懸想人の恋文でも収められているのですか?」
「まぁ、女三の宮さまを娶られてご自分が若返られたので、そのような邪推をなさるのですわね」
明石の上は世の無常を感じずにはいられない女三の宮ご降嫁を不快に感じておりましたので、ここぞとばかりにちくりと源氏をやりこめます。
源氏は女人というものはまったく、といわんばかりに渋い顔をして口を噤みますが、冗談はさておき、姫や明石の上の様子が普段とは違うのが気になります。
「いったい何があったのだ?」
明石の上も真顔に戻り、今はもう隠し立てもするまいと入道の顛末を話しました。
源氏は入道から夢のお告げが綴られてた文を読み終わると、涙を流しました。
「そうであったのか。これからの栄華に浴することもなく、実に潔のよい引き際はあの御方らしいね。尊敬すべき素晴らしい御仁であるよ」
源氏は女御に向き直ると愛情をこめて噛んで含めるように言いました。
「入道だけではない。紫の上や他の方々の支え合ってこその今の晴れがましい身分であるというのを知ったでしょう。感謝する心を忘れてはいけません。あなたはいずれ国母ともなられる御方だからね」
「はい、お父さま」
そうして素直に頷く女御は以前にも増して尊く輝いておられます。
明石の上はやはり紫の上さまに姫を託してよかったと痛感しております。
それにしても女三の宮さまを得てさらに紫の上さまへの寵愛は深まるようで、なるほどそれも道理である、と明石の上は心裡で思うのでした。
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