令和源氏物語 宇治の恋華 第三話
第三話 光なきあと(二)
源氏が世を捨てた折、薫君はまだ三歳ばかりの幼子でした。
経済的な面では何の心配もいりませんでしたが、この子の生い立つ姿を見届けることが出来ない源氏はさぞ後ろ髪を引かれたことでしょう。
柏木が世を去ったあの時にわだかまりは解け、何の罪もない無垢な赤子は源氏にとって何よりも愛しいものとなりました。一門のことは夕霧に任せても、薫のことだけは、と方々を尋ねては重ねて行く末を見守ってくれるよう頼んでいたのです。
冷泉院は源氏が仏門に下る決意を固めたのを知った折、せめてその尊い志がまっとうされるようにと薫君のことを見守ってゆくと固く誓約されました。
院は世に知られることはついぞありませんでしたが、まごうことなきかの藤壺の女院と源氏との間に生まれた子でありました。その出生の秘密の重さに耐えかね、父を臣下とする不孝の事実に苦悩した日々も過去のこと、世は天からの預かりものであると己を律し、民の為に国を平けく治め、春宮が一人前となったとみるや潔く身を引かれたのです。この徳のある院にとっても薫君は大切な弟ということになりましょう。それはもう心を込めてお世話しようと父・源氏に誠心誠意をこめて誓われたのでした。
院は薫が童殿上を勤める頃になると、ご自身の元に呼び寄せて、宮中のことから貴族のたしなみなどを日々ご教授されました。院の御座所のすぐ側に薫君の曹司を設けて管弦や書など幅広く教育したのです。
薫はとても頭がよく、何を教えても思った以上に上達するのがまた院には張り合いのあるご様子で、院に従い子の無い秋好中宮もまるで実の息子のように薫君に接するもので、ご夫婦の絆はさらに深まるばかり。
そうして薫君は愛しまれたのです。
十四の歳を迎えた春に薫君は冷泉院にて元服を迎えました。
初春の霞がうっすらとけぶる空に、冴えた空気にはほのかに薫る梅の香が薫君の芳香と合わさって高まってゆく。
冷泉院を初め、兄である夕霧や名のある公卿たちがずらりと着座する前に緊張した面持ちの薫君は畏まっておりました。
白い装束を纏った理髪の役が薫の角髪(みずら=髪を左右に分けて耳の横で輪にしてくくった髪型)を解くと、豊かな黒髪が零れ落ち、女子かとみまごうばかりに匂うようであります。黒々とした髪を削ぐのも惜しく思われましたが、はらりはらりと削ぎ落とされ、その面は未だ幼さを残しているものの、冠を着けられるとなまめかしくもどこか神々しく、若く立派な一人の貴公子が誕生しました。
冷泉院は感極まりながら言祝がれました。
「めでたいこと。一人前となったからには、人の為、国の為に尽くすのだぞ」
「はい」
そうして叩頭する姿は凛としてまさに時節柄白梅のような初々しい清廉さが窺えます。
つと控えていた楽人が静かに笙(しょう)を奏で始めました。
その伸びやかな音が空に吸い込まれるように立ち消えると篳篥(ひちりき)と和琴(六弦琴)が後を追うようにまつわって、それを受けた薫君が両腕を翼のように広げて拝舞する様はまこと天にまで祝福されているように尊いのです。
冷泉院はきっとこの日を源氏も待ちわびたことであろう、と心密かに偲んでおられました。院には皇子がおられないので年の離れた弟を息子のように思い、これからも庇護してゆこうと改めて誓われました。
薫はこの時侍従を拝命しました。
それは身分からいってもおかしくはないのですが、薫自身には非常に重く感じられるのはこの繊細な君ゆえでしょう。「源氏の息子」という世間の目に恥じぬようあらねば、と気を引き締めました。
そのように張りつめた横顔を目敏く見つけた夕霧は場を和ますように朗らかに言いました。
「本日はめでたい日ゆえそのような難しい顔をするものではないぞ、薫。大人になるということは責任が大きくのしかかってくるのであるが、世界も拓ける。酒も飲めるし、楽しいことも多くあるものだ」
「まったく夕霧の右大臣は近頃益々源氏の院に似てこられたようだ。力の抜き加減がなんとも絶妙であるよ」
そう院がお笑いになったので、その場に居た者たちも笑い合い、なんとも和やかなうちに元服の儀はお開きとなりました。
薫は己の存在を確かめるように懸命に務めを果たし、その年の秋には近衛の右近の中将に任命され、まさに異例のスピード出世を果たしました。
それを名門ゆえとみなされるか、実力とみなされるか、薫にはまだその判断はつきかね、自信なぞ湧くはずもありません。
ただこれより先も為すべきことを積み重ねるだけ、とひたすら邁進するのでした。
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