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令和源氏物語 宇治の恋華 第四十九話

 第四十九話 恋車(十一)
 
宇治の大君は対岸の山がうっすらと桜けぶる様子をせつなく眺めておりました。
新年の挨拶以来雪解けの頃に一度薫君からの便りが届きましたが、生真面目な君らしく、困ったことがあれば何なりとご相談ください、という事務的なもので色めかしさなど微塵も見せない様子に些かの落胆を隠せない大君なのです。
弁の御許が桜の枝に結び付けられた文を手にして部屋へやって来たのをもしや、と目を輝かせましたが、それは期待するものではありませんでした。
「大君さま、こちらに中君さまはおいでではありませんか?」
「いいえ」
あれは匂宮からの文であろうと深い溜息を漏らすのです。
大君はこのように一喜一憂しながら薫君の手紙を待ちわびる気持ちに戸惑っておりました。
自ら結婚はするまいと決めた三十路近くの女人の遅咲きの恋。
深窓の姫君というものは年頃になると世慣れた女房などが男女の愛などをそれとなく教えるものですが、山奥に隠れ住む落ちぶれた宮家に仕えるのは年老いた女房か文字を書くのにも難儀する田舎者の若女房くらいなものです。
身近な男性と言えば半俗の父宮となればそうした男女の機微には疎くなりましょう。
ただ恋うる気持ちを表せばよいものを宮家の姫であるという矜持も邪魔をするのです。
弁の御許は大君の愁いを見抜いておりました。
弁の御許はただの老い女房ではありません。
薫君の母女三の宮とまことの父・柏木の秘められた恋を知る生き証人です。
亡き柏木の君を慕っていた彼女が奇しくも宇治へと流れつき、仕える姫君と柏木の忘れ形見が結ばれればどんなによいことか、と心裡では願っているのです。
実際の処、大君は薫君とのことをどのように考えておられるのかが気になり、思い切って尋ねることにしました。
「大君さま、少しよろしゅうございますか?」
「なにかしら」
「薫さまのことでございます」
弁の御許から薫の名が出たことで大君は胸の裡を覗かれたようにどきりとしました。
「八の宮さまが御山に籠られる前にわたくしに漏らしたことがございまして」
「父上が?」
「はい。それは薫さまが最後に宮さまにお会いになった翌日のことでございました。宮さまが薫さまに姫君たちを頼むと言い残されたのはご存知ですね?」
「ええ」
「姫のどちらかを娶っていただき、息子と呼べればこの上ない。孫でも抱ければ幸せであるのに、と世を惜しんで涙をこぼしておられました。宮さまは恐らくご自身の命がそう長くないことを悟られていたのでしょう」
「そのようなことがあったのですか」
「薫さまは宮さまの遺言だけで大君さまに好意を示されたのではありませんわ。ずっと以前からお慕いされていたのでございます。わたくしが申し上げるのもさしでがましいことと承知しておりますが、このままでは薫さまが離れてゆきそうで申し上げずにはいられませんでした」
「でもわたくしはこのままここで独り身を通そうと決めたのよ」
「薫君がお嫌いですか?」
「いいえ。好もしく思えばこそ清くありたいのです。もしも薫君にわたくしを想ってくださる御心があるならばぜひに中君を娶っていただきたいの」
弁の御許は意外ないらえになんと答えればよいのかわかりませんでした。
「わたくしには理解致しかねます」
と弁の御許は頭(かぶり)を振りました。
「中君とわたくしは身はふたつだけれども心はひとつなのよ。中君ならば薫さまも満足されるに違いないわ」
「そうは仰いますが、いくら仲が良いといっても姫君たちはやはり別の個でありましょう」
 
なんと夢見がちなことを仰るのか。
 
愛を知らぬというものはこれほどまでに頑なであるものか、否、愛を知らぬ者など居はしまい、それは人に教えられるでもなく自らの裡から湧き上がるものなれば、この御方は怖じているだけなのだ、と御許はこの虚勢を張る姫を可哀そうに思いました。
「雪の降ったあの折、薫さまのまことの心が御身には響きませなんだか」
憐憫の籠った目で見つめられて、大君は狼狽しました。
弁の御許はそんな大君に畳み掛けるように続けました。
「薫さまは当代一の貴公子ですよ。かつての天下人、源氏の院の御子で、兄は夕霧の大臣、後見は冷泉院。今上の信頼も厚く、いずれは国の柱石として大臣にも上るという嘱望された御方でございます。生真面目な君ゆえ独り身を通しておられますが、あちこちの権門から婿にと望まれておられます。賢しらにどうこうできる相手ではございません。殿方を見縊ってはいけませんよ」
大君は打ちのめされて二の句も継げずにうなだれました。
「薫さまは誠実な御方ですので、八の宮さまとのお約束通り生涯姫さまたちの生活の面倒はみてくださるでしょう。ですがこのままではいずれ他の身分高い姫君を娶られ、こちらへ足を向けられることもなくなりましょう。厳しいことを申し上げましたが、これが現実というものですわ。ですが、大君さまも中君さまもこの山里にて朽ち果てる望みのようですから、もう何も申し上げることはございません。ただ薫さまを煩わせるような素振りはおやめくださいまし。さしでがましいことを申しまして、御許し下さいませ」
弁の御許は些か強く言い過ぎたとは思いましたが、これは紛れもない事実なので大君の認識の甘さを正すよい機会だと考えたのです。
薫君との縁組は二度とは巡ってこない転機となるでしょう。
ここで足踏みしていてはこの先幸せなど掴めるはずもないのです。
 
平安時代というものは男性が何人もの妻を娶ってよいとされ、仏教などの信仰の場でも女人は生まれつき罪障が深いなどと男尊女卑の厳しい時代でした。
殿方の庇護なくしては生きてはゆけない弱き立場でありながら、宮家の姫ゆえ高慢で、世間を知らぬと通す大君の甘い考えを弁の御許は衝いたのです。
弁の御許が御前を辞去して一人残された大君は老い女房の遺した言葉を噛みしめておりました。
薫君が尊い御方であるという認識はありましたが、亡き父宮に敬意を払い、自分たちにもそのように接してくれていたもので大君は思い上がっていたのかもしれません。
そうかといって薫君の前に身を投げ出すようなことは出来ません。
何よりも大君を辛くさせたのは、薫君が誰か他の姫を娶るという言葉。
顧みられることが無くなるのも悲しいですが、あの薫君の優しい笑みが誰か別の女人に向けられると考えると穏やかではいられないのです。
 
わたくしはいったいどうしてしまったのかしら?
 
初めて己が裡に生まれた仄かな恋心は今や大きな嵐となって大君を翻弄するのです。
大君の心は軋み、千々に乱れて、ただただ涙が溢れるばかりなのでした。

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