見出し画像

令和源氏物語 宇治の恋華 第五十四話

 第五十四話 恋車(十六)
 
目を転じると傾いた夕陽が空を赤く染めております。
弁はちょうどこんな折にお慕いしていた君と語らったことを思いだしていたのです。
「その昔、わたくしには心から想う方がおりました」
弁の突然の告白に大君はじっと耳を傾けます。
「その御方の身分は尊く、わたくしはただの使用人。とても釣り合うものではありませんでしたが、その方のお側にいられるだけで、微笑みかけられるだけで、幸せが込み上げてきて、いつまでもそんな日が続けばよいと願ったものでございます。しかし思うようにならぬものが世の常ですわねぇ。君には別に想う姫がいらしたのですよ。しかも恋してはならない人の妻でありました」
「まぁ」
「目の前で別の女人への恋に悩む愛しい方を見るというのはたいそう苦しゅうございました」
「その御方は弁の気持ちには気づいていたの?」
「いいえ。まっすぐな君でしたので愛する姫しか目に入らない一途さ。わたくしの想いなどには気付かれませんでしたでしょう。皮肉なことにその姫の側近くに仕えていたのがわたくしの従姉妹。わたくしはたいそう頼りにされて恋の橋渡し役を仰せつかりましたのよ」
「なんということ」
「辛いことではありましたが恋人からほんの短い便りをもらっただけでも天にも上るように喜ばれるのを見ると手を貸さずにはいられませんでした。愛する方が幸せであるならばどのようなことにも甘んじようと思ったものですよ」
「あなたは本当にそれで平気だったの?」
「平気でおられるほどわたくしは強くはありませんでした。心は悲痛に叫びをあげて、押しつぶされそうになったちょうどその頃、知り合った男がありましてね。熱烈に求愛されたのです」
「ではその方と」
「わたくしは慕う御方に愛されないのが辛くて意に染まぬ相手に身を委ねました」
「そうね。か弱い女人ですもの。とても耐えられなかったでしょう」
「そのうちに愛するその御方は焦がれるように儚くなってしまわれました。そしてそのような半端な心持ちが罰を蒙ることになったのでしょうか。男はわたくしをさらうようにして都を離れたのです。男は京で悪事を働いたために追われるように逃げたのでした。わたくしは世間知らずの娘でしたので、言われるままに馬の背に乗ってしまい、それから十年近く親兄妹と裂かれて、男が死ぬまで田舎を流離っていたのでございますよ。ようやく都へ帰り着いた時には親も亡くなり、兄妹も行方が知れなくなっておりました。八の宮さまが拾ってくださらなければどこぞでのたれ死んでいたかもしれません」
「そのような経緯があったなんて知りませんでした」
「わたくしは八の宮さまへのご恩に報いる為にも御身に心をこめてお仕えしようと思っております。大君さま、慕う御方が愛してくださるということはまことに幸せなことですのよ。怖れを捨てて薫さまと幸せになる勇気をお持ちくださいませ」
真摯に訴える老女の瞳に嘘偽りはありません。
しかし深窓にかしずかれてきた大君には計り知れぬほどの半生をなんと受け止めたらよいのでしょう。
 
 
弁の告白は大君の心を大きく揺さぶっておりました。
人を本気で愛したということ、この身近にある人の真実こそが大きく胸に響くのです。
大君は今たしかに薫君を慕う自身を自覚しはじめているのでした。
 
弁の御許は一人になると、懐かしい恋しさに涙をこぼしました。
弁が愛したのは悲恋に散った柏木の大納言。
今の薫君はあの頃の柏木の君とそっくりで、せめて薫君には幸せになってもらいたいと心から願わずにはいられないのでした。

次のお話はこちら・・・


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?