令和源氏物語 宇治の恋華 第二十話
第二十話 橋姫(八)
「中将殿、このような山奥によくぞお越しくださいました」
「八の宮さま、お初にお目にかかります。本日はお招きくださいましてまことにありがとうございました」
直にお会いした八の宮は想像した通りに気品のある穏やかな御仁でいらっしゃいました。
勤行痩せした面が清らかで先にお会いした阿闍梨とはまた違った求道者のように思われます。
皇族の御方らしく言葉遣いも丁寧で若い薫の言うことに優しく耳を傾けてくださるのがまたありがたく、寛容さをお持ちであると感じました。
宮はといいますと、噂以上の薫君の気高さに眩しく目を細められました。
加えてその妙香の不思議なこと、阿闍梨がおっしゃっていた「僥倖」という言葉がまさにうってつけであるよ、とこのような御方と出会えたことに感嘆の溜息を漏らされました。
それは薫君の父である源氏の君も稀なるご様子ではありましたが、それとはまた一風違うようで、宮は薫君を介して御仏の世界を垣間見たような神々しさを感じられたのです。
「まずは酒(ささ)などを用意しております。山川の幸などこれといって珍しいものもありませんが、どうぞおくつろぎください」
次々と膳が並べられて、見たことのない魚も盛り付けられておりました。
「この魚はなんというのでしょう?」
「これは山女魚(やまめ)といいます。水温の低いところでしか生息いたしませんので宇治川ではよく採れるのです。ただの塩焼きですが、私などはこの食し方が好きでして。どうぞ召し上がってみてください」
箸を入れると身がほろりとして、口に入れると淡白ながら味わいのある川魚に薫は驚きの声をあげました。
「河鹿や鮎とはまた違った味わいでございますね。美味です」
平安時代では魚が食されましたが、海が遠いので塩漬けや干物にした海魚が多く、鮮魚といえば賀茂川などで採れる鮎や河鹿などの川魚が主でした。
宇治に来てはじめて食べた獲れたての山女魚は薫君にはさぞ珍しかったことでしょう。
柔らかい山菜は上品に煮付けてあり、目にも嬉しい鮮やかな彩りも心尽くしのもてなしに薫はますます宮が慕わしく思われるばかりです。
宮も権門の御曹司であるのに謙虚で美しい青年を好もしく感じ、酒を酌み交わしながらすっかり意気投合してしまいました。
御仏に心を寄せる者同士、年齢も越えて、互いに思うところを語り合ったのです。
それは薫の心の淵に迫るところでもありましたが、不思議とそれを無理に隠そうとは思われませんでした。わざわざ人に知らせるべきことではありませんが、薫は生まれて初めて人に心を開いたのです。
「このように言っては失礼でしょうが、御身のように若く何事も思いのままにいらっしゃる君がどうしたわけで仏道に関心を深くもたれたのでしょうか。核心に触れるようでぶしつけですかな」
八の宮は穏やかに問われました。
「いいえ、宮さま。私は物心ついた時から人と違うように見られることが多く、なにかの因縁をこの身に背負って生まれて来たのかと悩んだこともありました」
「それは御身が持って生まれた香りのことですかな?」
「はい。私自身は人と変わらぬと過ごしておりましたものを拝むような方々までいらして、そのように私は尊い者ではないと煩悶したものでございます。前の世で至らぬばかりに人と違う徴(しるし)をつけられたのであれば、御仏に縋って身を浄める以外には救われぬのではないかと考えたのです」
薫はまさかこの香りこそが母の不義による罪の子の烙印と己が思っているとは告げませんでしたが、それまで誰にも話さなかった胸の裡をほんの少し漏らしたのでした。
宮さまは尊いばかりかと思っていたこの君がそのように思い悩んでいたことに驚かれました。
人と違うと言ってもこのように祝福されたような徴ならば、神よ仏よと拝まれれば、その気になって傲慢にもなろうものをこの若君は違うのであるなぁ、と益々その謙虚さを好もしく思われるのです。
「たしかに稀なることでありましょう。私にもその不思議は如何なるものかはわかりませんが、あなたのような御方だからこそ人が尊いと羨む徴が授けられたように思われますよ」
薫には宮の言わんとするところが理解できませんでしたが、初めて自分の存在が赦されたようで、心がゆるゆると解されてゆくように感じました。
それからは今まで疑問に思っていた仏典のところなど宮がわかりやすく解説してくださるので、あっという間に楽しい時間が過ぎてゆくものです。
「あまりに楽しくて随分とお引止めしてしまいましたな。陽はとうに暮れてしまいました」
「こちらこそご教授ありがとうございました」
薫が深々と頭を下げるのを、この青年は貴族でありながら叩頭を厭うこともせぬ、とまた好感をいだかれたのでした。
「この辺りは川霧が立ち込めるので、遅くならぬうちにお帰りなさいませ」
そう宮に送りだされ、薫は次の訪れの約束をして宇治を発ちました。
宇治を後にしてから、ふと二人の姫がおいでだったはず、と狭い邸にてまるで気配も感じなかったのを不思議に感じたのでした。
次のお話はこちら・・・
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