<書評>「ありがとう ジョット」
「ありがとう ジョット イタリア美術への旅」 石鍋真澄著 1994年 吉川弘文館
表紙は、ジョットの「東方三博士の礼拝」から。
読んでいて一番感じたこと,「フィレンツェのウフッツィ美術館は,ガイドに従って見たせいもあるけど,マザッチョとか本当に見なければならない作品を見逃していた!」,「イタリアに1年ぐらい住んで,ずっと美術館や教会・礼拝堂巡りをしたい!つまり自分バージョンの『イタリア古寺巡礼』(和辻哲郎)を作りたい!」,「ああ,イタリアに行きたい!!!」。
パドヴァ
私が一番好きな画家はジョットだ。そして,イタリアルネサンスの,レオナルド,ボッティチェリを経て,中世後期のフェルメールとボッシュで終わる。その後は印象派をすっ飛ばして,デュシャン,クレー,マグリット,キリコ,ピカソなどの20世紀に移動する。好きな理由を言えば,感性が合っているからとしか言えない。
しかし,ジョットを筆頭に,フィレンツェのウフィッツイ美術館やバティカン美術館などを一目見ればわかるように,イタリアは美術作品の宝庫だ。ルネサンスを生んだ先人に感謝しなければならない。そして,ずっとイタリアで美術作品を見て暮らしたら,どんなに良いだろうかと夢想する。さらにローマ遺跡もあるのだ。こんな素晴らしい国は,我が日本を除いて世界にない!
本書の白眉は,書名にもなっている「ありがとうジョット」の章だと思う。しかし,日本語で表現すると著者の感慨がうまく感じられないように思う。著者同様に,イタリア語で「グラーツィエ,ジョット」と聞かされた方が,より理解できるような気がする。
シエナ
本書で描かれたシエナの町並みを読むと,この次にイタリア旅行できたら,絶対にシエナに行こうと思った。そして,何よりも聖母の街として多くの聖母像が残されているのが良い。特にシモーネ・マルティーナの聖母像は,やさしいタッチに好感が持てる。
しかし,一番良かったのは,サセッタの聖フランチェスコを描いた作品だ。この絵は,フランチェスコが荒野で,3人の乙女に会う場面を描いている。この3人は,慈愛=赤,清貧=緑,従順=白の衣服で描き分けられているが,フランチェスコは迷わず清貧に結婚の指輪を与える。そして,フランチェスコの元を去っていく3人のうち清貧だけは,空の上からフランチェスコを愛おしげに振り返っているのだ。そのまなざしは,清貧でありながら慈愛に溢れ,そしてフランチェスコの存在に対する従順が込められているように感じた。
サセッタ「聖フランチェスコの婚姻」
カラヴァッジョ
カラヴァッジョは,欧米では非常に人気のある画家だが,不思議なことに日本ではさっぱりだ。これはフェルメールにも言えることだったが,近年習作(つまり売却する事を想定せず,自分の練習用に作ったもの)と言われている「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの女)」が日本で有名になって,日本人の間にもフェルメール好きが増えた。ただし,習作とされているように,「真珠の耳飾りの少女」はフェルメールの最高傑作ではないし,フェルメールの良さを代表する作品ではない。私が最高だと思うのは,人物画ではない「小路」と「デルフト展望」だ。なぜなら,そこから多くの物語が読めるから。
フェルメール「真珠の首飾り(青いターバンの女)」
フェルメール「デルフト展望」
フェルメール「小路」
話をカラヴァッジョに戻そう。日本人にカラヴァッジョが浸透しなかったのは,やはりその絵のドラマ性と迫力というアクの強さではないだろうか。その劇的かつ迫真の描写は,浮世絵的なソフトな感情表現を好む日本人には,少し強すぎるように思う。でも,カラヴァッジョは上手い。めちゃくちゃ上手い。これは教えられてできるスキルではないので,正に天才の筆だと思う。
カラヴァッジョが,なぜ自分の作品によく自画像を描いているのか。たぶん,それが彼なりのサイン=存在感の証明だったような気がする。当時は,今と違って画家は芸術家ではなくて職人だったから,個性を尊重するようなことはなかったし,作品に署名することはない。その代わりとして,背景となる人物の一人になっている例がある。
「聖マタイの召命」で,「私のことか?」と自分を指さす者がマタイと言われているが,自分の胸を親指で指すと同時に,金を数えている青年を人差し指で指している。この金を数えている青年は,うつむいていて顔がよくわからないが,おそらくカラヴァッジョの自画像ではないかと思う。また,「トランプ詐欺師」で詐欺に遭う左側の人物のトランプを覗いている男も,カラヴァッジョの自画像に思える。(この件に関しては,マリア・カラスの「トスカ」(カラヴァッジョが主人公)とともに,別途画像を入れた考察を掲載する予定。)
カラヴァッジョ「聖マタイの召命」
カラヴァッジョ「トランプ詐欺師」
ローマ,バロック
これまで自分は,割合と美術に詳しいと自負してきたが,この章にいたって,自分は今まで美術について何も知らなかったことを痛感した。そして,ローマやフィレンツェで,ベルニーニやペトロ・ダ・コルトーナなどの傑作が観光先の間近にありながら,きちんと鑑賞していなかったことを恥ずかしく,また千載一遇のチャンスを逃したことを深く後悔した。
ヨーロッパ美術は奥が深く,イタリア美術は無限の喜びに溢れている。やはり,イタリア美術の世界を理解するためには,短期の観光旅行ではなく,こうした研究書で勉強した後に,じっくりと鑑賞するようにしないと,真に「見た」ことにならないと思った(森有正のいう先験的経験だ)。それは,私が日頃からお上りさん的な観光旅行の一環としての美術鑑賞を残念に思っていることからも,深く自省するものとなった。
人間,一生勉強です。わかったつもりになった時が一番危ない。そして,もう一度,長い期間をかけてイタリア美術巡りをしたい,と切に願う。
画家たちの名前
というわけで,本書で勉強させてもらった画家たちの名前を,備忘録のつもりで列記したい。
太字は,私が愛する天才たちだ。
ジョット,マザッチョ,ボッティチェリ,バロッチ,ドナテッロ,ブルネッルスキ,デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ,ルカ・デッラ・ロッピア,ポントルモ,ミケランジェロ,レオナルド(・ダ・ビンチ),ラファエロ,アントニーオ・ロッセリーノ,ベルナルド・ダッディ,シモーネ・マルティーニ,アンブロジオ・ロレンツェッティ,サセッタ,ジャンティーノ・ダ・ファブリアーノ,マゾリーノ,ギベルティ,ピエロ・デッラ・フランテェスカ,フィリッポ・リッピ,ティツィアーノ,ドゥッチョ,クレスピティ,バルディ,ペテルザーノ,サヴォルド,カヴァリエル・ダルピーノ,オッタヴィオ・レオーニ,フランチェスコ・ピラネージ,ステファノ・デッラ・ベッラ,ピーテル・ファン・ラール,カルロ・マデルノ,アンニバレ・カラッチ,カラヴァッジョ,グイド・レーニ,ルーベンス,エルスハイマー,ドメニキーノ,バンボッチョ,ニコラ・プサン,ピエトロ・ダ・コルトーナ,アルガルティ,ベルニーニ,ボッロミーニ,ベラスケス,アンドレア・サッキ,クロード・ロラン,カルロ・マラッタ,バチャッチャ,アンドレア・ポッツォ,ガスパール・ファン・ウィッテル